こんにちは!
今回は、ルノワールの《ムーラン ・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》について解説します。
早速見ていきましょう!
目次
ムーラン ・ド・ラ・ギャレットの舞踏会
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ムーラン ・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年
1877年、第3回印象派展に出品した作品で、庶民の休日の歓びを描いた絵です。
ルノワールは、この展覧会開催の準備に尽力し、友人で画家のカイユボットも資金を出して会場を手配しました。
そして、ルノワールが出品した大作である上の絵を購入したのもカイユボットでした。
この展覧会で一番の話題作でした。
舞台
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は、製粉業を営み、ギャレットを売っていた商人の親子が、古い風車の近くに開いたダンスホールでした。
「ムーラン」は風車、「ギャレット」は焼き菓子という意味です。
飲んで騒ぐ他の店とは違い、落ち着いた雰囲気の店でした。
このカフェのダンスホールは、毎週日曜日のみ午後3時から深夜まで開かれ、職人や芸術家、学生が集い、週末にダンスホールやカフェに行くことが、当時の若者の楽しみのひとつでもありました。
ダンスホールは大きな倉庫の中にありましたが、天気の良い日は、庭にテーブルやイスを出して、野外舞踏会が開催され、その様子を描いた作品です。
現在はレストランとして営業しています。
ルノワールが描いたムーラン・ド・ラ・ギャレットに集う人たちには、 日々の労働の憂さを晴らしに来ている人々の苦労も苦悩もいっさいうかがえません。
上層ブルジョワ階級出身のマネ、ドガ、そしてカイユボットが労働者に対して向けたドライな視線と違い、ルノワールは労働者階級に対して常に温かい視線を注いでいました。
人生の現実であり、闇の部分を肌身に感じていたルノワールだからこそ、あえて人生の喜びしか描きませんでした。
彼は見ていて楽しくなるような絵しか描きませんでした。
ルノワールは《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》で、作品全体の色調を青のグラッシ(乾いた作品の表面に薄く塗る透明な油絵の具)を施して整え、深い輝きを表しました。
その結果、作品全体が幸福なオーラで満たされることとなりました。
近くに住んでいた
当時35歳のルノワールは、このダンスホールの近くのコルトー街に、月100フラン(約10万円)でアトリエ兼住居の部屋を借りて住んでいました。
キャンバスをムーラン・ド・ラ・ギャレットまで担いでいって現場で制作しました。
そして、これを基に大型のバージョンがアトリエで制作されました。
カイユボットが購入したのは、ルノワールがアトリエで制作したものです。
そして、現場で制作された小型バージョンを購入したのが、税務官吏だったヴィクトール ・ショケでした。
ショケは、決して多いとはいえない給料をやりくりし、投機対象としてではなく自分の喜びのために絵画を収集していました。
ドラクロワの崇拝者だったショケは、1875年の競売会以来、ルノワールの作品にドラクロワとの類似点を見いだしていました。
また、ショケは当時唯一といってもよいセザンヌの愛好家でもありました。
構図
浮世絵に影響を受け、画面の両端を断ち切ったように描いたことで、画面の外に広がりが感じられ、生き生きとした臨場感が生まれています。
建物の水平線と、ダンスする人々やガス燈の垂直線、ベンチの3人が作るピラミッドなど、古典的な造形が、喧騒の中に秩序を与え、作品に安定感をもらたしています。
たくさんのモデルを集めるために…
当初は、踊っている人々を観察して描こうとしていました。
しかし、大勢の人が好きなように動き、踊っているので上手く絵が描けない〜!ということで、モデルを集めて描こうとします。
そこで大勢のモデルを集めるために、当時大流行していた麦わら帽子を「プレゼントするよ!」と言って募集したところ、帽子をもらえない人も出てきてしまうほど、たくさんの人が集まりました。
登場人物
描かれた人々はみな、流行のファッションに身を包んでいます。
服装の違いは、社会的な身分の違いも表しています。
キューバの画家カルデナスと、当時ルノワールのお気に入りのモデルで恋人だったマルゴです。
舞踏場は男女の出会いの場でもあったので、マズルカやカドリーユなどのカップル・ダンスが人気でした。
下がエステル、上がエステルの姉ジャンヌで、2人もルノワールお気に入りのモデルでした。
当時の女性は通常、外では帽子をかぶるものとされていました。
彼女が無帽なのは、そうしたことに煩わされない階級だと示すためか、あるいは、新しい女性として帽子を拒否していると考えることができます。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ぶらんこ》1876年
上の女性もジャンヌです。
《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》の制作用に借りたアトリエ兼自宅の庭にあったブランコを題材にした作品です。
女性たちは、袖のフリルなど凝ったものを着ていますが、これにはミシンの流通が寄与しました。
全て手縫いだった時代には、富裕層にしか許されなかった装飾過剰のドレスも、素材の良し悪しは別として、お針子や洗濯女や女子工員でも着られるようになりました。
姉妹と会話しているのは、画家のフラン=ラミです。
シルクハットをかぶりタバコを口にくわえているのは、画家のノルベール・グヌットです。
メモを取っているのは、批評家のリヴィエールです。
彼はのちに官僚として大出世しています。
さらに、雑誌『印象派』を出版し、印象派を世間に紹介した人物であり、ルノワールの伝記も書きました。
この麦藁帽はカノティエともカンカン帽とも呼ばれるものです。
ちなみに彼らが飲んでいるのは、当時流行していたザクロシロップです。
「グレナデンシロップ」とも呼ばれ、ビールに混ぜてカクテルに、ソーダで割ってジュースにして飲んだカフェの定番メニューです。
ルノワールの息子が映画化
ルノワールの次男で映画監督のジャンが、映画『恋多き女』で、ルノワールの本作を再現しています。
↓再生ボタンを押すとすぐにそのシーンに飛びます。
「不気味」だと言われ…
人々の顔や服、地面に降り注ぎゆらめく木洩れ日は、画面を生き生きと輝かせ、絵に幸福感を与えています。
しかし、影の部分に青や紫が使われたことによって、当時の批評家からは「不気味な紫の斑点」と酷評されてしまいます。
もう1枚ある?
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年
78 × 114 cmと、こちらの方が小ぶりです。
どちらの絵を先に描いたのかはよくわかっていませんが、もしかしたらダンスホールで描いたのはこちらの絵で、この絵を元にアトリエに戻ってから大きい方を描いたのかもしれません。
というのも、大きい方の絵は、131 × 175 cmあり、サイズ的に持ち運ぶことが難しいからです。
日本人が購入していた
ショケが購入した小型バージョンを、バブル期の1991年、大昭和製紙名誉会長の齊藤了英がオークションで高額で落札し、もう1点落札し所有していたゴッホの《ガシェ博士の肖像》(1890年)とともに、「死んだら棺桶に入れてもらうつもりだ」という発言をしました。、国際的に大バッシングを受けました。
その結果、好景気に沸いていた日本経済に対する反感もあって、世界中を唖然とさせただけでなく激怒させてしまい、後に、「あれは言葉のあや」と訂正することに…ダサいな……。
結局バブル崩壊で海外へ流出し、スイスのコレクターの手に渡ったと考えられています。
他の画家が描いたムーラン・ド・ラ・ギャレット
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ムーラン ・ド・ラ・ギャレットにて》1891年頃
ロートレックも、ムーラン ・ド・ラ・ギャレットの常連でした。
パブロ・ピカソ《ムーラン ・ド・ラ・ギャレット》1900年
ルノワールの健全さはどこへやら、ビカンはこれでもかと怪しげな雰囲気で描いています。
その他ゴッホやユトリロなどが描いた絵については↓