こんにちは!
今回は、モネの強強エピソード編です。
早速見ていきましょう!
サン=ラザール駅と第3回印象派展
前回のおさらい
第2回印象派展で作品が売れるも相変わらず金欠のままのモネ、パトロンの家に招かれるもパトロンの妻といい感じに…(恩を仇で返す系かな?)。
ハッタリで許可を得る
クロード・モネ《サン=ラザール駅》1877年
モネ37歳のとき、パリのサン=ラザール駅を描きたくて、近くのモンシー街に絵を描くための部屋を借りました。
サン=ラザール駅は、アルジャントゥイユへの列車が発着する駅で、モネは日頃からこの駅を利用していました。
鉄道は、先輩画家マネや印象派の画家が好んで描いた近代性を象徴する主題でした。
クロード・モネ《ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅》1877年
モネは、自分の思うアングルや配置で駅や汽車を描きたいと思いました。
しかし、巨匠ならまだしも、売れない貧乏画家の言うことを駅が聞いてくれるわけがありません。
そこでモネは、立派な服を着て大画家のフリをして駅長をうまいことダマして、好きな場所で好きなように絵を描く許可をゲットしました。
そして、異なった視点から異なった時刻に描いた12点の連作を描きました。
第3回印象派展
クロード・モネ《サン=ラザール駅、列車の到着》1877年
37歳のとき、第3回印象派展に参加し、《サン=ラザール駅》シリーズなど30点を出品しました。
美術批評家ジョルジュ・リヴィエールは、第3回展参加者18名を紹介する小冊子『印象派』を刊行し、モネの《サン=ラザール駅》の連作を称賛しました。
泣きっ面にハチ
クロード・モネ《草上の昼食》1865‐1866年
このころ、アルジャントゥイユでの生活に出費がかさんだこともあり、モネは借金に追われ、家具の競売を求められる状況に陥っていました。
そのうえ、妻カミーユが病気に倒れました。
モネは地主に上の絵を借金の担保に引き渡して、翌年、アルジャントゥイユを去りました。
そして、数か月間は、パリのエダンブール街に滞在しました。
妻カミーユが弱っていく
クロード・モネ《ポンポン帽子をかぶったミシェル・モネの肖像》1880年
38歳のとき、カミーユとの間の次男ミシェルが生まれました。
しかし出産後、カミーユの健康状態はさらに悪化しました。
この時も、マネがモネの訴えに応じて経済的援助をしています。
美術評論家のテオドール・デュレが、小冊子『印象派の画家たち』を出版し、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾの5人を印象派グループの先導者だとして解説を書きました。
パトロンのエルネスト・オシュデが破産しました。
次回は、事実は小説よりも奇なり、破産したパトロン一家との謎の共同生活編です。
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