こんにちは!
今回は、戦争が終わり、好景気のパリでやっと穏やかな日々を過ごせることになったモネ、でしたが…。
早速見ていきましょう!
モネと印象派誕生の前夜
前回のおさらい
モネはカミーユと結婚。幸せな日々の始まりかと思いきや戦争が勃発し、ロンドンへ避難しました。
オランダへ
クロード・モネ《ザーンダム近くの風車》1871年
モネ31歳、モネ一家は、5月までロンドンに滞在しました。
普仏戦争に続くパリ・コミューンの混乱が終息に向かうと、ドービニーとともにオランダ、アムステルダム近郊ザーンダムに向かいました。
クロード・モネ《アハテルザーンの家》1871年
水面を好んで描いたドービニーとモネは、運河や水車など、水辺の多いオランダの風景を気に入りました。
モネはその後もオランダを訪れています。
穏やかなひととき
クロード・モネ《アルジャントゥイユのレガッタ》1872年頃
秋になってフランスに戻り、パリ北西部のセーヌ河畔のアルジャントゥイユに引っ越しました。
クロード・モネ《アルジャントゥイユの画家の家》1873年
この地でのモネの家を用意してくれたのはマネでした。
クロード・モネ《ひなげし》1873年
アルジャントゥイユには約6年住み、約170点の作品を制作しました。
その約半数がセーヌ川周辺の風景でした。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《アルジャントゥイユの自宅の庭で描くモネ》1873年
この間、マネ、ルノワール、シスレーたちが頻繁にモネを訪ねました。
ルノワールは、アルジャントゥイユの庭で制作するモネを描いています。
クロード・モネ《ポンヌフ》1872年
同時に、パリのサン=ラザール駅近くにも34歳頃までアトリエを持ち、ルノワールとともにポンヌフの橋を描いたり、頻繁にブーダンと会ったりしていました。
好景気
クロード・モネ《春》1872年
32歳のとき、フランスは普仏戦争後の復興期にあたり、一時的に好景気でした。
ルーアン市の美術展に2点出品しました。
デュラン=リュエルがモネの絵画を多数購入するなどして、経済的な余裕が生まれました。
デュラン=リュエルと接触のあったピサロ、シスレー、ドガとともに、この年のサロンに作品を送っていないのは、このことも理由のひとつだと考えられています。
翌年には、デュラン=リュエルのほかに、銀行家のエクト兄弟、批評家テオドール・デュレといった買い手が現れました。
クロード・モネ《アトリエ舟》1874年
モネは、そのお金で小さなボートを購入し、アトリエ舟に仕立て、セーヌ川に浮かべて制作しました。
これにより、低い視線から刻々と変化する水面を描くことができるようになりました。
このアトリエ舟の発想は、水辺の画家ドービニーから学んだ可能性が指摘されています。
エドゥアール・マネ《水上アトリエで制作するモネ》1874年
マネがアトリエ舟で制作するモネの様子を描いており、モネ自身もアトリエ舟を作品に登場させています。
印象派はベンチャー企業
クロード・モネ《キャピュシーヌ大通り》1873年
29、30歳とサロンに続けて落選して以来、サロンから手を引いていたモネは、ピサロ、ドガ、ルノワールらとともに、サロンとは独立した展覧会を開くという構想を持つようになりました。
33歳の4月、ピサロに「みんな賛成してくれている。反対なのはマネだけだ」と書き送っています。
ルノワール、シスレー、ピサロらとグループ展の企画を立て、「画家、彫刻家、版画家など、芸術家の共同出資会社」を作りました。
つまり、印象派のグループは、お金を出し合って設立したベンチャー企業でした。
この頃、ヨーロッパを襲った金融危機により、デュラン=リュエルの経済状況が悪化していました。
彼が以前のように絵を買えなくなったという事情も、この構想の早期実現を促す要素となりました。
次回はいよいよ第1回印象派展の開催です!
モネたちの運命やいかに…。
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