ムソルグスキー「展覧会の絵」は実際にあった展覧会を元にした曲?超解説!

こんにちは!

今回は、ムソルグスキー作曲の『展覧会の絵』についてです。

早速見ていきましょう!

展覧会の絵

イリヤ・レーピン《作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像》1881年

組曲『展覧会の絵』は、1874年にロシアの作曲家モデスト・ムソルグスキーによって作曲されたピアノ組曲です。

上の絵はロシアの有名な画家レーピンが、ムソルグスキーの死の約10日前に病院を訪れ、描いた作品です。

後日ムソルグスキーが亡くなったことを知り、この絵で得た代金を、彼の葬儀などあてるようスターソフ(ムソルグスキーの支援者)に託しました。

この曲の話に戻すと、ムソルグスキーは、ロシアの画家で親友のヴィクトル・ハルトマンの死を悲しみ、絵の展覧会を訪れた際の散歩(プロムナード)の様子を曲にしました。

曲ごとに拍子が違うのは歩きながら絵を見ているという、歩調を表しているとも言われています。

有名なのはオーケストラ版

後世では、多くの作曲家によってオーケストラに編曲されました。

特に、1922年、フランスのモーリス・ラヴェルが編曲した、トランペット・ソロで開始されるものが有名です。

この編曲版は、同年パリのオペラ座で演奏され、これをきっかけに一挙にムソルグスキーの『展覧会の絵』は世界的に有名になりました。

ラヴェルは編曲に当たり、ムソルグスキーの自筆譜を何とか入手したいと考えていましたが叶わず、当時出版されていたリムスキー=コルサコフ版(リムスキー=コルサコフの改変が入っている)を元に制作しました。

その編曲は特に冒頭のトランペットのファンファーレ的な「プロムナード」に象徴されるように、ラヴェルの異名である「オーケストラの魔術師」どおりの華麗で色彩的なものでした。

原曲のロシア的な要素を重視するよりもオーケストラ作品としての華やかな色彩を与えることを企図し、成功しています。

友人の遺作展を曲に

『展覧会の絵』はムソルグスキーが、友人ハルトマンの遺作展を歩きながら、そこで見た10枚の絵の印象を音楽に仕立てたものです。

とはいえ、そもそも10枚の絵なのか、またムソルグスキーがハルトマンの絵だけを題材にしているのかについては異論があります。

何百もの作品がある中でなぜこの10枚だったのかというと、自国ロシアにとどまらずフランス、ローマ、ポーランドなどさまざまな国の風物を表現したかったからだと考えられています。

また、これらの10枚の絵がただ無秩序に並ぶのではなく、「プロムナード」という短い前奏曲あるいは間奏曲が5回繰り返して挿入されるのが特徴的です。

この「プロムナード」は展覧会の巡回者、すなわちムソルグスキー自身の歩く姿を表現しているといわれています。

覚えやすいメロディーと緩急自在の構成(ユーモラスな曲、優雅な曲、おどろおどろしい曲、重々しい曲など)から、ムソルグスキーの作品の中でももっとも知られた作品の一つです。

組曲の構成

絵の印象を描いた10曲と、「プロムナード」5曲、「死せる言葉による死者への呼びかけ」の16曲から構成されています。

ただし、ラヴェル版は第5プロムナードが削除された15曲で、これにならった版も多くあります。

絵の印象を描いた10曲のうち、5曲のみ、どの絵を題材にしているのかが判明しています。

第1プロムナード

1 小人(グノーム)

第2プロムナード

2 古城

第3プロムナード

3 テュイルリーの庭 – 遊びの後の子供たちの口げんか

4 ビドロ(牛車)

第4プロムナード

5 卵の殻をつけた雛の踊り

ファイル:Trilbyballet.jpgのHartmannChicksスケッチ

ヴィクトル・ハルトマン《バレエ「トリルビー」の演劇衣装のスケッチ》

有名舞台演出家マリウス・プティパのバレエ『トリルビー』の衣装デザインをハルトマンが手がけていました。

精霊、小人、人魚たちに加え、カナリヤや卵の殻をつけた雛の格好をして子供たちが踊りました。

6 サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ

ヴィクトル・ハルトマン《富めるユダヤ人》

ヴィクトル・ハルトマン《貧しきユダヤ人》

2枚のうち1枚をムソルグスキーが所有(ハルトマンからの贈り物)し、もう1枚はスターソフが持っていたものでした。

一応この2枚だろうということにはなっていますが、断定はできないそう。

第5プロムナード

7 リモージュの市場

8 カタコンベ – ローマ時代の墓

ヴィクトル・ハルトマン《パリのカタコンベ》

ハルトマンがパリのカタコンベを訪れた時に描いた水彩スケッチをもとに制作しました。

ムソルグスキーは墓の場所を古代ローマに移し、タイトルを付けています。

死せる言葉による死者への呼びかけ

9 鶏の足の上に建つ小屋 – バーバ・ヤガー

ヴィクトル・ハルトマン《鶏の足の上に建つバーバ・ヤガーの小屋、ロシア風時計》

上の絵は、ロシアの魔女バーバ・ヤガーの鶏の足の上にたつ小屋の形をした装飾の時計を描いたものです。

とはいえムソルグスキーは時計ではなく、魔女が臼にまたがり、ほうきで飛びまわるというシーンを音楽にしているようです。

10 キエフの大門

ヴィクトル・ハルトマン《キエフの大門のプロジェクト、メインファサード》

キエフの市街門を描いた絵で、内部は小さな教会があります。

様々なものが華麗に入り混じり、礼拝聖歌、祝祭的な鐘の音、讃美歌のような旋律とともにフィナーレを盛りあげます。

親友の死にひどく落ち込む

1870年頃、ムソルグスキーは建築家で画家のヴィクトル・ハルトマンと出会い、仲良くなりました。

しかしその3年後、ハルトマンは動脈瘤が原因で急死してしまいました。

ムソルグスキーの落胆ぶりは大きく、残された手紙などによると、ハルトマンの体の異常に気づきながら友人としてなすべきことをしていなかったのではないかと、自責の念にかられている様子がわかります。

ハルトマンの遺作展

彼の死から半年後、ハルトマンの遺作展が、彼の母校であるサンクトペテルブルク美術アカデミーで400点の遺作を集めて大々的に開催されました。

この遺作展を開こうと尽力したのが、ウラディーミル・スターソフでした。

遺作展は、ハルトマンの作品を整理することと、ハルトマン未亡人のための資金援助が目的であったと考えられています。

スターソフはロシアの芸術史研究家であり評論家でしたが、指導者的な面もあり、多くの若い芸術家の慈父のような役割を果たしていました。

スターソフは、ムソルグスキーのことも支援していました。

その展覧会から半年後、ムソルグスキーは『展覧会の絵』を完成させました。

残っているスターソフへの手紙から、作業の遅いムソルグスキーにしては珍しく2〜3週間足らずで一挙に作曲されたものと推測されています。

手塚治虫のアニメーション

手塚治虫が『展覧会の絵』から受けたインスピレーションをもとに、約30分の短編アニメーションを制作しています。


展覧会の絵  

クラシックの名曲に合わせてオムニバス・アニメ(10のエピソード)が展開されて行く手塚治虫版の『ファンタジア』といった趣の作品です。