メディチ家のお坊ちゃんが遊び友達だった画家ボッティチェリを超解説!

こんにちは!

今回は、ボッティチェッリについてです!

早速見ていきましょう!

サンドロ・ボッティチェッリ(1445年頃-1510年)

サンドロ・ボッティチェリ《東方三博士の礼拝》部分 1475年頃

サンドロ・ボッティチェリはルネサンス期のイタリア、フィレンツェの画家です。

本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピです。

兄が酒飲みで太っていたことから「小さな樽」を意味するボッティチェリというあだ名が付きました。いい迷惑ですね。私ならキレます。

上の画像は、画家の自画像では?といわれています。

小さい頃から、頭の回転が早く、ユーモアのセンスもあり、落ち着きがないところもありましたが、みんなから好かれるタイプの人間でした。

サンドロ・ボッティチェリ《薔薇園の聖母》1468年

15歳くらいのときに、フィリッポ・リッピ工房に弟子入りします。

ここで技法や描写を学び、どんどん上達していきます。

フィリッポ・リッピからもとても可愛がられていたそう。

上の絵は、20代前半で描いた絵です。

レオナルド・ダ・ヴィンチは弟弟子

その後、アントニオ・デル・ポッライオーロ、そしてアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房で働きます。

ヴェロッキオの工房で後から入ってきたのが、約7歳年下のレオナルド・ダ・ヴィンチでした。

師匠の息子を弟子に

最初の師匠の息子、フィリッピーノ・リッピを助手にします。

2人は親友となります。

ピサの斜塔

有名なピサの斜塔の隣にあるピサ大聖堂の壁画を頼まれますが、完成することはありませんでした。

その理由は定かではないですが、フィレンツェ以外の場所から依頼されていた、という事実が、評判の高まりを表しています。

メディチ家のお坊ちゃんと仲良し

サンドロ・ボッティチェリ《東方三博士の礼拝》1475年頃

師匠リッピのパトロンはメディチ家でした。

その縁もあって、ボッティチェリはメディチ家と繋がりがありました。

上の絵には、メディチ家の人々が多数描かれています。

絵の出来栄えに喜び、 メディチ家に気に入られます。

ロレンツォ・デ・メディチは、パトロンであり、友達でした。

「食いしんぼうでハエより厚かましい、おしゃべり上手のボッティチェリ」なんて言う仲だったそう。(笑)

プリマヴェーラやヴィーナスの誕生のモデル

サンドロ・ボッティチェリ《美しきシモネッタの肖像》1480-1485年

ロレンツォの弟ジュリアーノの愛人、シモネッタ・ヴェスプッチは並外れた美しさを持つ女性でした。

彼女は《プリマヴェーラ》や《ヴィーナスの誕生》のモデルでは?といわれていますが、否定的な意見も多いです。

彼女は22歳という若さで亡くなっています。

《美しきシモネッタの肖像》はなんと!日本の丸紅が所有しています。

サンドロ・ボッティチェリ《プリマヴェーラ》1480年頃

諸説ありますが《プリマヴェーラ》は、ロレンツォのいとこの結婚祝いとして描かれたといわれています。

詳しい解説はこちら!

システィーナ礼拝堂

サンドロ・ボッティチェリ《モーセの試練》1481-1482年

当時一流の画家として、教皇シクストゥス4世に招かれ、ローマのシスティーナ礼拝堂の壁画を制作します。

余談ですが、レオナルドは招かれなかったことに、かなりショックを受け、ボッティチェリのことをけなしてます。(笑)

システィーナ礼拝堂といえば、ミケランジェロの《最後の審判》が有名ですが、それが制作されるのは、もっと後の話です。

名声の高まり

サンドロ・ボッティチェリ《マニフィカトの聖母》1483年頃

丸い絵のことをトンドといいます。

ボッティチェリは、この形式を使用した最初の画家のひとりでもあります。

サンドロ・ボッティチェリ《ナスタジオ・デリ・オネスティの物語 第3場面》1483年

4枚の連作です。

ディズニーシーにこの絵のパロディがあったりします。

くわしくはこちらで解説しています!

サンドロ・ボッティチェリ《ヴィーナスの誕生》1485年頃

この絵もメディチ家の依頼で描かれたといわれています。

当時の考えでいくと、この絵はあまりにも異教的で、大問題な作品でしたが、メディチ家の尽力もあり、奇跡的に焼かれず現在まで残っています。

この絵についての解説はこちら!

サンドロ・ボッティチェリ《ヴィーナスとマルス》1485年頃

ヴィーナスとその恋人軍神マルスが描かれています。

ちなみにこの絵のパロディもディズニーシーにあります!

自分の作品を燃やす

サンドロ・ボッティチェリ《神秘の降誕》1500年

パトロンのロレンツォが亡くなり、ドミニコ会の修道士サヴォナローラが神政政治でフェレンツェを支配します。

彼は、贅沢や享楽は魂を滅ぼすと説き、メディチ家を非難しました。

そして贅沢品として、工芸品美術品を広場に集め、焼却してしまいます。

貧しい市民の賛同を集めたサヴォナローラの政治的な影響力は増し、結果としてメディチ家はフィレンツェから追放されてしまいます。

ボッティチェリはというと、反対するどころか、サヴォナローラの考えに感化されて、自ら美術品などを焼いてしまったともいわれていますが、さすがにそこまではしていないのでは?ともいわれています。

この頃から作風がガラリと変わり、聖書を題材とした絵しか描かなくなりますが、1501年頃、絵を描くことすらやめてしまいます。

晩年は、画家としての存在を忘れ去られ、19世紀末に、やっと名声が回復しました。

まとめ

ボッティチェリは優雅な線画が特徴
・代表作は、《プリマヴェーラ》や《ヴィーナスの誕生