ジュリー・マネを超解説!ベルト・モリゾとマネの弟の娘?ドガが恋のキューピッドに?

こんにちは!

今回は、モリゾの娘ジュリー・マネについてです。

早速見ていきましょう!

ジュリー・マネ(1878-1966年)

ベルト・モリゾ《ブージヴァルの庭にいるウジェーヌ・マネと娘》1881年

愛しのジュリー

ジュリー・マネは、ベルト・モリゾマネの弟ウジェーヌの娘です。

モリゾが37歳のとき、ジュリーは生まれました。

しかし、この愛娘をモリゾの母親がその腕に抱くことはありませんでした。

2年前、一時確執もありましたが、幼い頃から娘の才能を伸ばすことを支援し続けてきてくれた母親ががんで亡くなりました。

母親に代わって、新たに愛娘がモリゾの精神を癒してくれる存在となりました。

そして同時に、彼女の作品に常に登場する着想源となっていきました。

彼女は生涯にわたり自分が愛情を抱いている相手を描いた際、女性らしい温かい感情と幸福感が画面に滲み出ました。

特に娘ジュリーを出産して以降、この愛娘は常に母親の深い愛情がこもった絵筆で描かれていきました。

モリゾの作品の数々は、ジュリーの成長していく折々の姿を母としていとおしみながら写し取ったアルバムのようでした。

彼女特有の大胆な筆づかいで、それらはその瞬間を支配していた幸福感と繊細なセンチメンタリズムが見事に描き取られています。

女性画家ならではの感受性豊かな情景が描かれていますが、ルノワールの作品のような甘ったるさはありません。

 ルノワール夫人アリーヌは、自分の息子たちを愛情深く甘やかして育てました。

しかし、モリゾとアリーヌは生まれ落ちた時から属していた階層が違ったので、おのずと養育法も違っていました。

アリーヌと同じように子供に深い愛情を注ぎながらも、モリゾは母親の養育法同様にジュリーを決して甘やかして育てることはなく、マネ家の娘としてふさわしいよう厳しく育てました。

こうしてジュリーは、両親のようにすらっと背の高い細身の美少女へと成長していきました。

エドゥアール・マネ《じょうろの上に座るジュリー・マネ》1882年

マネはこの絵の1年後、1883年に51歳で亡くなっています。

ベルト・モリゾ《庭のウジェーヌ・マネと娘》1883年

ベルト・モリゾ《寓話》1883年

ジュリーと、ジュリーの教育係のパジーが描かれています。

《庭の乳母と娘》1883-1884年

ベルト・モリゾ《裁縫の勉強》1884年

パジーがジュリーに裁縫の仕方を教えています。

ベルト・モリゾ《飾り鉢で遊ぶ子供たち》1886年

左がジュリー、右は当時住んでいた家の管理人の娘マルト・ジヴォーダンです。

中国製の陶器の飾り鉢マネからのプレゼントでした。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ジュリー・マネあるいは猫を抱く子ども》1887年

ベルト・モリゾ《マンドリンを弾くジュリー》1889年

モリゾはジュリーに、マンドリンだけでなく、ピアノヴァイオリン、そしてデッサンなど様々な芸術的教育をおこなっていました。

ベルト・モリゾ《インコと娘》1890年

ベルト・モリゾ《インコと娘》1890年

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ライラックと少女》1890年頃

帽子をかぶっているのが12歳くらいのジュリーで、横にいるのは10代前半の姪のポールです。

1890年と1891年の夏の間、ルノワールはモリゾの家を頻繁に訪れていました。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《白い帽子をかぶった女性》1890年頃

この絵のモデルもジュリーだろうといわれています。

父ウジェーヌの死

ベルト・モリゾ《ジュリー・マネと彼女の犬》1893年

1892年、13歳のとき、父ウジェーヌが58歳で亡くなりました。

ジュリーにショックを与えないため、モリゾは娘を次姉エドマに預け、埋葬に立ち会わせることもしませんでした。

上の絵のジュリー、どこかムンクの絵を思わせるところがあります。

黒いシルクのドレスを着ていることからまだ喪に服していることがわかります。

ジュリーの背景にあるのは日本の浮世絵です。

ウジェーヌの死後、母と娘はお互いに気遣い、それぞれに悲しみに耐え、それぞれに苦しんでいました。

感情をあらわにしないように努めるのも、彼女たちが属した階層の女性に課せられ、そして心身に染み込んでいた義務でした。

夫を失ったモリゾは、それまではウジェーヌに任せきりだったさまざまな事を、一家の主としてこなしていかなくてはならなくなりました。

マネ家の相続問題は弁護士に任せることができても、愛する娘のことが何よりも心配の種でした。

自分までも死んだら娘はどうなるのかと、彼女は苦悩しました。

ベルト・モリゾ《夢見るジュリー》1894年

このジュリーもムンクの絵のような雰囲気があります。

女の園

悲しみは続き、ウジェーヌの死の数カ月後には、3年前に収税吏の夫テオドール・ゴビヤールを亡くしていたモリゾの長姉イヴが55歳で世を去りました。

ゴビヤール家にはイヴの義弟しか残っていなかったため、モリゾが遺児となった姪2人、ポールとジャニーを引き取り、一緒に暮らし始めました。

ジュリーは従姉妹たちとの生活を大歓迎し、寂しかった母と娘の生活に華やぎが戻りました。

この3人の従姉妹たちは、モリゾ亡き後に揃ってヴィルジェスト通りの館で暮らすことになりました。

そのヴィルジェスト通りの館ですが、モリゾが息を引き取ったのはこの夫が設計した館ではありません。

一家の主としての責任が一気にその肩にのしかかってきた彼女は、経済的な理由でウジェーヌとの思い出があふれるヴィルジェスト通りの館を去ることを決断しました。

自分たちはブローニュの森に近い小さめのアパルトマンに移り、ヴィルジェスト通りの住まいを賃貸しして収入を確保しました。

モリゾは、絵の才能があった姪のポール・ゴビヤールを可愛がり、ポールもモリゾの下で熱心に絵を勉強しました。

ジュリー同様にモリゾの生徒となりました。

外見的にも性格的にも女性としての魅力に欠けていることを自覚していたポールは、叔母モリゾのように画家を職業にして生きていくことを決意していました。

次姉エドマの娘たちも、モリゾと従姉妹たちに会いにエドマよりも頻繁に訪れていました。

ウジェーヌ以外の男性を描くことのなかったモリゾでしたが、この頃も彼女は娘や姪たち、そしてジュリーの親友やルノワールと共有したモデルといったように、若い娘たちが彼女の着想源になっていました。

母モリゾとの別れ

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ベルト・モリゾと娘ジュリー・マネの肖像》1894年

上の絵は、夫を亡くしたモリゾが、娘のジュリーを描いて欲しいとルノワールに依頼したところ、ジュリーだけでなく、モリゾの姿も一緒に描きました。

そしてそれが、モリゾの最後の肖像画となりました。

1895年、16歳のとき、ジュリーはインフルエンザにかかります。

彼女を看病していたモリゾは、 娘が回復に向かう一方で、反対に自分が床に就いてしまいました。

病状は急に悪化し、インフルエンザから肺炎を起こしてしまいます。

息をすることもできずに苦しむ中、死期を悟ったモリゾは、息を引き取る前日にジュリー宛てに手紙を書きました。

そして、翌月の午後にジュリーと会った後、苦しむ自分の最期にジュリーが立ち会うことを望まなかったモリゾは、姉エドマと姪ポールに看取られて54歳で世を去りました。

最期の言葉は「ジュリー」でした。

マラルメ、モネ、ルノワール、ドガが父親に

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ジュリー・マネの肖像》1894年

マネ家は裕福だったので、生活面での心配はありませんでしたが、孤児となったジュリーは、モリゾと仲が良かった詩人で評論家のマラルメ後見人となり、モネルノワールドガもジュリーを支援し、親戚のもとで暮らしました。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ステファヌ・マラルメの肖像》1892年

後見人に選ばれたモリゾの友人たちは、孤児となったジュリーに対して、約束どおり父親のように何かと気にかけ愛情を注ぎました。

気難しいことで知られていたドガでしたが、ジュリーにはいたずらっ子がそのまま年をとった、気ままな伯父さんのような存在でした。

ドガはルノワールのような下町気質がなく、決してお節介な性格ではありませんでしたが、 自分は独身を通したにもかかわらずジュリーには恋のキューピッドを演じることになります。

恋のキューピッドを演じたドガ

母親のように画家を目指したジュリーがルーヴル美術館に模写に出かけた際に、ドガが彼の弟子エルネスト・ルアールを紹介しました。

エルネストとジュリーは、上層ブルジョワ階級に属していた人々らしく、ドガを介した「お見合い」 によって結ばれました。

若い頃のドガは、ベルト・モリゾの長姉イヴ・ゴビヤールに憧れ、彼女が属していた上層ブルジョワ階級にふさわしい気品漂う肖像画を残しています。 

1900年5月3日にエルネスト・ルアールとジュリー・マネ(21歳)、およびジュリーの後見人マラルメを敬愛していた詩人ポール・ヴァレリーと従姉妹のジャニー・ゴビヤールとの合同結婚式が執り行われました。

そして、この結婚式の主賓として招かれたのがドガでした。

ちなみに、偉大なる文人ボール・ヴァレリーはドガに魅了された1人で、1933 年から5年にかけてエッセイとして書かれたものを集めて出版されたのが『ドガ ダ ンス デッサー』です。

2組の夫婦は、ウジェーヌとモリゾが建てたヴィルジェスト通りの館の別々のフロアで暮らしました。

そして従姉妹のポール同様に、ジュリーも母のようにの画家としての人生を送りました。


印象派の人びと―ジュリー・マネの日記