旅から旅へ?優雅な肖像画を描いたサージェントを超解説!

こんにちは!

今回は、優雅な肖像画を描いた画家サージェントについてです。

早速見ていきましょう!

ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925年)

John Singer Sargent - autoportrait 1906.jpg

ジョン・シンガー・サージェント《自画像》1906年

ジョン・シンガー・サージェントは、アメリカの画家です。

旅をしながら生活

父親はフィラデルフィアの開業医、母親は裕福な商人の娘でした。

母親は、第一子を亡くした悲しみを紛らわすため、夫婦で欧州旅行をし、帰国を嫌がったため、旅をしながら生活していました。

第二子のサージェントがイタリアのフィレンツェで生まれ、サージェントは少年時代をイタリアで過ごしました。

その後、ローマやフランスなどで妹が4人生まれました。(内2人は夭折)

同じ町に数ヶ月以上いることはなかったので、学校には通っておらず、父親に勉強を習い、母親にピアノと絵を学び、読書をし、イタリア語、フランス語、ドイツ語などを覚えました。

この特殊な生活環境からか、家族の絆は非常に強く、生涯にわたって他者とは一定の距離を置いて接しました。

父親はサージェントにアメリカ海軍軍人としての将来を期待していましたが、絵が好きで自分でも描いていた母親は、画家への道を応援していました。

画家への道

カロリュス・デュラン

ジョン・シンガー・サージェント《カロリュス=デュラン》1879年

12歳のとき、ローマでドイツ系アメリカ人の画家カール・ヴェルシュのアトリエに通い、絵を学びました。

14歳のとき、故郷のフィレンツェに戻り、アカデミア・デッレ・ベッレ・アルティに通いました。

18歳のとき、パリに出て、マネモネとも親しかったカロリュス=デュランに師事するとともに、エコール・デ・ボザールにも通い、アカデミックな美術教育を受けました。

21歳のときから、サロンに出品するようになりました。

23際のとき、師を描いた上の作品をサロンに出品し、好評を得て、以降専用のブースが与えられました。

旅先で学ぶ

エドワードダーリーボイトの娘たち

ジョン・シンガー・サージェント《エドワード・D・ボイトの娘たち》1882年

23歳までデュランのもとで修業した後、イタリア、スペインを旅行し、特にベラスケスの絵に感銘を受け、《ラス・メニーナス》を模写しました。

上の作品は、筆致や構図、人物や小道具の配置の仕方に《ラス・メニーナス》から影響を受けているともいわれています。

巨大な有田焼の双子壺や純日本製で、当時海外向けに制作されていたものでした。

余談ですが、ボイト家の四姉妹は誰も結婚せず、暗いところに立つ2人は、後に精神病を発病しています…。

この絵はサロンに出品され、好評を得ました。

ジョン・シンガー・サージェント《エル・ハレオ》1882年

18歳から24歳の間、家族でイギリス、スコットランド、ノルウェー、スイス、スペイン、イタリア、ポルトガル、モロッコ、アルジェリア、パレスティナ、エジプト、アメリカへ旅行しました。

マダムX

ジョン・シンガー・サージェント《マダムX(ピエール・ゴートロー夫人)》1883-1884年

28歳のとき、パリのサロンに出品した上の肖像画がスキャンダルに…。

この肖像画は当初《…夫人の肖像》という題名で発表し、後に《マダムX》に変更した作品でしたが、当時の人が見れば、誰が描かれているのかは一目瞭然でした。

それは、アメリカ出身で、フランス人銀行家のピエール・ゴートローと結婚したヴィルジニー・ゴートロー夫人です。

この絵は人妻を描いたものとしてはあまりにも官能的であり品がないとして、当時の批評家から非難さてしまいます。

大人気肖像画家へ

ジョン・シンガー・サージェント《カーネーション、リリー、リリー、ローズ》1885-1886年

翌年29歳のとき、スキャンダル騒ぎに嫌気がさし、パリを離れてロンドンに居を構えました。

ロンドンに落ち付いた彼は、同地でも肖像画家としての人気を得ます。

カメラの時代なので、逆に肖像画はステイタス・シンボルでした。

ロンドンのロイヤル・アカデミーにはすでに26歳のときから出品しており、41歳のときには同アカデミー正会員となっています。

モネと仲良くなる

ジョン・シンガー・サージェント《森の端で絵を描くクロード・モネ》1885年

サージェントがモネと最初に出会ったのは20歳のときだったといわれていますが、親しい友人関係となったのは30歳くらいのときでした。

29歳のとき、パリ近郊のジヴェルニーで制作していたモネを訪問し、一緒に絵を描いたと考えられています。

サージェントは、マネの絵を2点、モネの絵を4点所有していました。

マクベス夫人

ジョン・シンガー・サージェント《マクベスに扮したエレン・テリー》1889年

シェークスピアの傑作『マクベス』は、身の丈に合わない野望を抱き、破滅した夫婦の物語です。

この絵では、マクベス夫人が「黄金の冠」を掲げ、(現王を殺して)絶対に夫の戴冠を成功させるぞ!という鬼気迫るシーンが描かれています。

サージェントは、ロンドンのライシアム劇場でマクベス夫人を演じるエレンに感激し、肖像画を描かせて欲しいと頼みこの作品が出来上がりました。

このときエレンは41歳で、彼女はこの絵をとても気に入ったそう。

そしてエレンは、実は昔、画家ワッツの妻でした。(ワッツが描いたエレン

アメリカへ

35歳のときには、ボストン市立図書館の壁画制作を依頼され、以降アメリカへは毎年行くようになりました。

ジョン・シンガー・サージェント《レディー・アグニュー》1892年

ジョン・シンガー・サージェント《セオドア・ルーズベルト》1903年

60歳のときには、ボストン美術館のロトンダ(円形大ホール)の天井画制作を依頼されています。

サージェントは、古代ギリシャ神話・ローマ神話から想を得た天井画のほか、装飾レリーフのデザイン、ロトンダの空間全体の設計を担当し、1925年の死の直前まで制作に関わっています。

51歳頃からは肖像画の注文をよほどのことがない限り断り、以後の晩年は水彩の風景画を主に制作しています。

62歳のとき、従軍画家として第一次世界大戦でフランス戦線へ行きました。

69歳のとき、ロンドンで亡くなりました。

まとめ

サージェントは、上流社交界の人々の肖像画を優雅に描いた画家