こんにちは!
今回は、60歳近くまで真っ黒な絵を描き、その後色彩豊かな絵を描いた画家ルドンについてです。
早速見ていきましょう!
オディロン・ルドン(1840-1916年)
![](http://omochi-art.com/wp/wp-content/uploads/2021/01/f84f6497c17bf1d1e052a573977d496b-1.jpg)
オディロン・ルドン《自画像》1867年
オディロン・ルドンはフランスの画家です。
両親と離れ離れ
フランスのボルドーの裕福な家庭に生まれました。
家族はアメリカの開拓民として成功し、帰国したばかりでした。
生後2日で、10キロ離れたメドック地方ペイルルバードの叔父のところに預けられました。
ルドンはこのことに大変ショックを受け、何か複雑な事情があったのかもしれませんが、ルドン自身は母親に疎まれたためだと信じていました。
なぜなら、兄は、両親の元で愛情深く育てられていたからです。
母親からの愛情に飢え、病弱で学校へも行っていませんでした。
さらにペイルルバードは、どこか荒涼とした土地で、これらのことから内気だったルドンは、ますます内向的な性格になっていきました。
学校は嫌いだけど…
11歳のとき、ボルドーに戻され、遅れて寄宿学校へ入学しましたが、学校が大嫌いでした。
ボルドー在住でドラクロワが大好きな画家ゴランと出会います。
17歳のとき、12歳年上の植物学者アルマン・クラヴォーと出会い、顕微鏡でいろんなものを見たり、自然科学、植物学、宗教、哲学、文学と幅広い知識を得ました。
また、クラヴォーが読んでいたエドガー・ポー、フロベール、ボードレールを読み始めました。
18歳のとき、学校を卒業し、父親の望む建築の勉強を始め、エコール・デ・ボザールの受験を受けるも不合格…。
建築家の道は諦めざるを得ませんでした。
幻想を描く
24歳のとき、パリに出て画家ジェロームのアトリエに入りますが、彼の「見たとおりにそっくり描くのが芸術」という教えに反発して辞めてしまいます。
ボルドーに戻ったルドンは、銅板画家ロドルフ・ブレダンと出会い、想像力で描くことを学びます。
30歳のとき、普仏戦争が勃発し、従軍しましたが、元々病弱なルドンは病気になって除隊されます。
黒い絵
戦後はパリに出て、木炭デッサンで作品を描きためていました。
![](http://omochi-art.com/wp/wp-content/uploads/2021/01/158a3821fc58f2a6dd47397db726df9e-1.jpg)
オディロン・ルドン《眼の気球》1878年
38歳のとき、レイサック夫人のサロンで友達になったラトゥールに石版画(リトグラフ)を教わります。
サロンは、ブルジョワたちの社交場でした。
![](http://omochi-art.com/wp/wp-content/uploads/2021/01/40f7745fa84667ad56eeb4afa5b94852-1.png)
オディロン・ルドン《版画集『夢の中で』Ⅷ 幻視》1879年
39歳のとき、初の石版画集「夢の中で」を出版しました。
結婚
![](http://omochi-art.com/wp/wp-content/uploads/2021/01/51e3580839d79d4896e8cf3ddeb05686-1.jpg)
オディロン・ルドン《刺繍をするルドン夫人》1880年
40歳のとき、レイサック夫人のサロンで出会った13歳年下のカミーユ・ファルトと結婚しました。
結婚後、制作ペースが急に早くなりました。
結婚から10年後の手紙のなかで「私は妻に生涯の運命の女神を見出したのです」と書いています。
41歳のとき、パリで木版画の小さな個展を開くなど、活動が本格化しました。
象徴主義の文学者ユイスマンスの「さかしま」にルドンが登場し、デカダンな画家として注目を浴びます。
46歳のとき、第8回印象派展(最後の回)に出品しました。
息子
長男のジャンが生まれましたが、6か月で亡くなってしまいました。
![](http://omochi-art.com/wp/wp-content/uploads/2021/01/3f9f485d-06e2-5148-c7d1-6541f36f680a.jpg)
オディロン・ルドン《アリ・ルドンの肖像》1898年
49歳のとき、次男のアリが生まれ、とても可愛がりました。
恩師の死
![](http://omochi-art.com/wp/wp-content/uploads/2021/01/8f51057c721cd9da426c8018cb0a2852-1.jpg)
オディロン・ルドン《版画集『夢想』No.1 それは一枚の帳、一つの刻印であった》1891年
50歳のとき、親しかったクラヴォーが亡くなりました。
上の作品は、クラヴォーに捧げた版画集で、1枚目は、クラヴォーの顔をキリストに見たてて描いています。
美しい色彩へ
![](http://omochi-art.com/wp/wp-content/uploads/2021/01/1926.1976_print-scaled-2.jpg)
オディロン・ルドン《ヴィオレット・ハイマンの肖像》1910年
57歳のとき、ペイルルバードの農園を兄が売却しました。
これを機に、ルドンの作品には、草花や神話などをモチーフにした明るくて色彩豊かな作品が多くなりました。
63歳のとき、レジオン・ドヌール勲章を受章しました。
![](http://omochi-art.com/wp/wp-content/uploads/2021/01/a0a62fbdbff5074def890989f9dde6b5-1.jpg)
オディロン・ルドン《目を閉じて》1890年
64歳のとき、上の作品が国家買い上げになりました。
モデルはカミーユです。
![](http://omochi-art.com/wp/wp-content/uploads/2021/01/e3b0c6e030b0aef1fe50274c0e049e6b-1.jpg)
オディロン・ルドン《長首の壺の草花》1912年頃
ルドンの絵に描かれる花は、妻のカミーユが大切に庭で育てたものでした。
![](http://omochi-art.com/wp/wp-content/uploads/2021/01/le-cyclope-odilon-redon-50899-copyright-kroller-muller-museum.jpg)
オディロン・ルドン《キュクロプス》1914年
ギリシャ神話に登場する巨人族キュクロプスのポリュフェモスが、海の精霊ガラテアを優しく見つめています。
または、身を潜めるガラテアと、彼女を探すポリュフェモスのようにも見えます。
ポリュフェモスはルドン、ガラテアはカミーユだと考えられています。
ポリュフェモスはガラテアに恋をしますが、彼女が愛していたのは、美青年のアキスでした。
逆上したポリュフェモスはアキスを殺してしまします…。
この絵では、実らないガラテアとの恋や、怪物の孤独感が表現されています。
息子を探して…
74歳のとき、第一次世界大戦が勃発し、息子のアリが召集され、その後音信不通に…
息子の手がかりを求めて探しまわるうちに体調を崩し、風邪をこじらせ、アリの身を心配しながらカミーユに看取られ76歳で亡くなりました。
アリはというと、戦争を生き抜き、戦後、無事戻ってきています。
まとめ
・ルドンは、幻想を真っ黒な世界で表現し、60歳近くでカラフルで鮮やかな絵を描いた画家