こんにちは!
今回は、ゴッホとガシェ医師についてです。
早速見ていきましょう!
ガシェ医師(1828-1909年)
フィンセント・ファン・ゴッホ《医師ガシェの肖像》1890年
ポール・ガシェは、フランスの医師です。
美術愛好家で、アマチュアの画家でもありました。
彼は、晩年のゴッホの主治医でした。
精神病が専門
裕福な家庭に生まれ、やんちゃな少年だったガシェは、10代の頃から芸術に惹かれていましたが、医者の道へ進みました。
博士論文「鬱の研究」で医学博士号をとり、神経症の治療をする診察所を開業しました。
精神病の温浴療法だけでなく、ホメオパシー(その病気や症状を起こしうる薬(や物)を使って、その病気や症状を治すことができるという考え)や電気療法なども行いました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ピアノを弾くマルグリット・ガシェ》1890年
40歳のときに結婚し、翌年、長女のマルグリットが生まれました。
診察よりも芸術
ポール・ガシェ《コレラの光景、1854年ジュラでの流行の記録》1890年
42歳のとき、普仏戦争が始まると、軍医として働きました。
しかし、同じ頃に父親が死亡し、金利収入が入るようになってからは、診察に不熱心になり、画家、詩人、音楽家との交流を優先するようになったともいわれています。
戦争が終わり、妻が結核にかかったことから、44歳のとき、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに家を買って移り住みました。
翌年、長男ポールが生まれています。
ポール・ガシェ《ルーヴシエンヌ、雪の眺め(ピサロの模写)》1877年
隣町ポントワーズに引っ越してきたピサロと仲良くなり、ピサロの紹介でセザンヌやギヨマンとも仲良くなり、ルノワールやマネ、モネとも交流がありました。
ポール・セザンヌ《オーヴェルのガシェ医師の家》1873年頃
他にもドービニーやデュプレなどの画家もガシェの家を訪れました。
多くの画家と交友関係を持ったり、その診察に当たっていたため、ガシェが亡くなったときには、ヨーロッパでも最大級の印象派コレクションを有するに至っていました。
ゴッホの良き理解者であり似たもの同士
フィンセント・ファン・ゴッホ《オーヴェルのガシェ医師の庭》1890年
62歳のとき、ガシェは週に数回パリで診察を行っており3月に初めてゴッホの診察をし、健康回復のため彼をオーヴェルに招きました。
そして5月、37歳のゴッホが、サン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院から、ピサロと親しいガシェを頼ってこの地にやって来ました。
ゴッホの弟テオは、ガシェ自身美術愛好家であることから、兄を任せるには適任だと考えていました。
ゴッホは、5月20日、初めてガシェと会ったときの印象を、「かなり常軌を逸した人のような印象を与えたが、彼の医師としての経験が、きっと少なくとも僕と同じくらい重い神経の病と戦いながらもバランスを保たせているのだろう。」とテオへの手紙に書いています。
また、妹のウィルには「僕はガシェ医師を予め用意されていたような友人、新しい兄弟のように感じた――それほど僕たちはお互いに身体的にも精神的にも似ている。彼はとても神経質でとても風変わりで、新しい画家たちに力の及ぶ限りの友情と貢献を示してきた。」と書いています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《庭のマルグリット・ガシェ》1890年
再び創作意欲がよみがえったゴッホは、村の風景や村人を描くだけでなく、しばしばガシェの家を訪れ、彼やその家族、彼の家の庭の絵を描きました。
ここに来てから亡くなるまでの2か月間で、80点ほどの作品を残しています。
医師ガシェの肖像
フィンセント・ファン・ゴッホ《医師ガシェの肖像》1890年
ガシェ医師の肖像画は2枚あり、第2バージョンの上の絵をガシェ医師にプレゼントしています。
手に持ったジギタリスは「孤の手袋」という名の多年草で、イギリスの田舎で浮腫に効く民間薬として使われていたものでした。
さらにこの頃、心臓病の特効薬でもあることがわかり、評判の高い名薬になっていたため、医師を象徴する草花として一緒に描かれています。
ウジェーヌ・ドラクロワ《フェラーラの聖アンナ病院のタッソ》1839年
アルルでのゴーギャンとの共同生活中に、2人はファーブル美術館に行ったことがありました。
美術館訪問後、弟のテオに上の絵のリトグラフが手に入らないか手紙に書き送っていました。
上の絵が何の絵なのかというと、精神病院に幽閉された詩人タッソの絵です。
この絵に影響を受けて描いたのが《医師ガシェの肖像》でした。
フィンセント・ファン・ゴッホ《医師ガシェの肖像》1890年
上の作品は、ゴッホが生前唯一制作したエッチングでした。
第1バージョンは所在行方不明に
フィンセント・ファン・ゴッホ《医師ガシェの肖像》1890年
この有名な肖像画は、現在行方不明です。
以前は大昭和製紙名誉会長の齊藤了英が100億円以上で落札し、所有していました。
ちなみにこの社長は、ルノワールの代表作《ムーラン ・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》も所有しており、「自分が死んだら棺桶に入れてもらうつもりだ」と発言し、超問題になった人物でした。
彼の死後は焼かれることなく、サザビーズに売却し、海外の投資家が買ったところまではわかっているのですが、その人が破産した後の行き先が不明に…。
治療していたのか?
ポール・ヴァン・リッセル(ガシェ医師の仮名)《フィンセント・ファン・ゴッホ、彼の死の床》1890年
しかし、ガシェ医師と出会ってから2か月後の7月27日、ゴッホは自ら銃を撃ち、2日後に死亡しました。
ポール・ガシェ《フィンセント・ファン・ゴッホ、彼の死の床》1890年
ガシェはゴッホの死に立ち会いました。
ゴッホの病状の悪化と自殺を食い止めることができなかったとして、ガシェは不適任だったという批判もありますが、2か月という短い診察期間ではガシェにできたことは少なかっただろうともいわれています。