こんにちは!
今回は、モネの画塾時代を解説します。
早速見ていきましょう!
勉強嫌いのモネの画家修業 パート1
前回のおさらい
モネは先輩画家ブーダンと出会い、外で絵を描く楽しさを知りました。
希望を胸にパリへ
クロード・モネ《キジのある静物》1861年頃
19歳のモネは、ブーダンおすすめのパリで絵の勉強をしたいと考えるようになりましたが、父親が強く反対しました。
しかし、モネがカリカチュアで稼いだ貯金2,000フランでパリに行きたいと伝えると、父親はこれに驚いて、やむを得ず許可をし、パリに行くことができました。
このとき、ル・アーヴルの奨学金を申請しましたが落選しました。
以後、モネと家族との間では何かと衝突が起こり、そのたびに仕送りが滞ることになったため、モネは経済的に苦しい日々を送ることになりました。
勉強?いやだね
コンスタン・トロワイヨン《休憩》19世紀
ブーダンの師で牛をたくさん描いた画家トロワイヨンのもとを訪れました。
トマ・クチュール《退廃期のローマ人たち》1847年
彼から、ルーヴル美術館で模写をしてデッサンを学ぶこと、トマ・クチュールのアトリエ(マネが通っていた)に入ることを勧められました。
しかしモネは、何と言っても勉強が大嫌い。
昔の作品から学べと言われても、古典絵画に全く興味もなければすごいとも思えませんでした。
クロード・モネ《画家のアトリエ》1861年
そこで20歳のとき、自由に描くことができる私塾アカデミー・シュイスに入ることにしました。
ここで出会ったのが、10歳年上のピサロでした。
印象派で一番の年長者で穏やかな性格のピサロは、後に印象派の「長老」的な存在となり、個性の強い画家の集まりだったグループのまとめ役になっていきました。
徴兵
21歳のとき、兵役のためアフリカ騎兵隊としてアルジェリアに行きました。
アルジェリアで見た光と色彩の印象がモネの中に強く残りました。
22歳のとき、腸チフスを患い、ル・アーヴルに戻ってきました。
モネの師匠
ヨハン・ヨンキント《月明かりの下のオーフェルスヒー》1871年
療養中、ブーダンを通して、オランダ人の風景画家ヨンキントと知り合いました。
ヨンキントは、自然を自分が観察したとおりに描くことをモネに教えました。
17世紀オランダ風景画の伝統的な構図をもとに、外光や大気を巧みにとらえ表すことができたヨンキントは、マネから「近代風景画の父」と呼ばれていました。
ヨンキントには印象派のような大胆な画風は見られないものの、印象派の先駆者と見なされています。
モネは健康が優れないことを理由に、伯母が兵役免除の納付金を納めることで軍を正式に除隊することができました。
伯母や父は、ブーダンやヨンキントのことをあまり良く思っておらず、モネに悪影響を与えているのではと考えていました。
父親はパリに戻る前のモネに、パリで有名な師匠のもとで訓練すること、好き放題するようなら仕送りを打ち切ると言い渡しました。
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