こんにちは!
今回は、マネとモネが描いた《草上の昼食》についてです!
早速見ていきましょう!
目次
マネとモネの《草上の昼食》
エドゥアール・マネ《草上の昼食》1863年
クロード・モネ《草上の昼食》1865‐1866年
マネの《草上の昼食》
エドゥアール・マネ《草上の昼食》1863年
野原に布を敷いて、持ち寄ったワインやサンドイッチを飲み食いするビクニックは、お金がかからないので、とりわけ庶民階級のレジャーとして好まれました。
マネ《草上の昼食》も水辺のピクニックです。
しかし、1863年のサロンに上の作品を出品すると、「ハレンチすぎる…!!!!」と大不評。
サロンで落選したため、落選展に出品するも、批評家からも世間からも大バッシングを受けます。
この絵のサイズが歴史画で使われるような大きなサイズだったことも問題になりました。
なぜ大バッシングを受けたのか
謎の裸の女性がいるからです。
裸の女性の絵なんていっぱいあるじゃん?って思うかもしれませんが、当時の絵画の暗黙のルールとして、「意味もなく女性の裸を描いてはいけない」というものがありました。
描いていいのは「神話や寓意、歴史上の出来事」のときだけです。
女神は人間ではないし、擬人化は人間ではないので裸でもOKでした。
みんな、裸の女性が描かれた絵を見たら、「これはなんの神話の場面かな〜」とか考えて、なんとかその絵画を正当化しようとするのですが、マネは、普通の女性の裸を描いてしまったんです!
なので、この絵を見た人たちは、大変なショックを受け、「いやいやダメでしょ何これ???」状態でした。
ありえないものを見たときに、嫌悪感を感じるときと、ありえなさすぎて笑っちゃうときがあると思うのですが、当時の人の反応としては後者です。
元になった絵がある
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《田園の奏楽》1509年頃
マネはこの絵からインスピレーションを受けています。
この絵も、着衣の男性と裸の女性が描かれていますが、これはOKな絵です。
なぜなら、寓意画だからです。
裸の女性は詩歌の女神なので、人間ではないのと、この男性たちに実際に見えているわけではありません。
だから裸でもOK、問題になりません。
マルカントニオ・ライモンディ《パリスの審判》1515年頃
《草上の昼食》の構図自体はラファエロのデッサンをもとにマルカントニオ・ライモンディが製作した上の銅版画からの引用でした。
右下の3人のポーズがまさしく同じですね。
この絵もギリシャ神話、つまり描かれているのは神なので、裸でもOKです。
古典からの引用は、決して珍しくも恥ずかしいことでもなく、古典に対する教養の深さを表すとして本来なら評価されるべきことでした。
マネももちろん、現実にこんな光景がくりひろげられていたと言いたいわけではなく、古典を現代風にアレンジしただけでした。
マネの絵は、左下に女性が脱いだ服が無造作に描かれていることから、女神でもニンフでもなく、「現実の裸体の女性」であることを示したため、非難殺到…。
森は売春エリア
パリ郊外のブローニュの森など、今も昔も売春エリアとして有名です。
当時は、今のように規制が無かったため、たくさんいたそう。
当時の人々は、絵画を「読む」ことが当たり前だったため、売春を描いた絵だとして、批評家や鑑賞者は、この作品を「いかがわしい」「不道徳」として糾弾しました。
多くの鑑賞者にとって、現代的な男性の横に現実的な女性の裸体がある生々しさは、 セーヌ河畔での純朴な水遊びというより、社会の陰を彩っていた娼館や娼婦の存在を思わせるものでした。
しかしマネは、鑑賞者の深読みに反して、作品の中にドラマや教訓を含めることを嫌っていた画家でした。
さらに、クールベと違 って自分の作品に対しても寡黙だったため、これ以降の作品に対しても鑑賞者の誤解や深読みが続くことになります…。
何の絵なのかわからない
裸の女性はカメラ目線、男性2人は女性に興味なさげで2人で話し込んでいる、後ろで水浴びする女性…
パンやフルーツが転がっているけど、食べている感じはなし、お酒が入っていたであろう瓶が転がり、右の男性は外なのに、室内用の帽子を被っている…
水浴びしている女性の大きさも前景にいる人物と比べて大きすぎたり、影がなくて平たい感じだったり…
なにもかもがちぐはぐで、違和感がすごい。
モデル
画家ヴィクトリーヌ・ムーランがモデルです。
彼女は、マネの《オランピア》や、他の画家のモデルもしていました。
マネの義弟フェルディナンド・レーンホフがモデルです。
マネの弟ギュスターヴがモデルです。
フェルディナンド・レーンホフの妻スザンナがモデルです。
19世紀の習俗どおりに、服を着たまま水浴しています。
元々は題名が違った
1863年のサロンに出品したときは《水浴》という題名でした。
モネはマネのこの作品から主題の着想を得て、1866年に《草上の昼食》を描きました。
後にマネは1867年の自分の個展の際に、モネからタイトルの着想を得て、《水浴》から《草上の昼食》に題名を変えました。
モネの《草上の昼食》
クロード・モネ《草上の昼食》中央部分 1865-1866年
左の男性は、モネにとって先輩の画家クールベがモデルを務めています。
マネ同様にクールベも、若い前衛的な考えを持った画家たちの尊敬を集めていました。
モネがこの作品を歴史画のサイズで現代生活を描こうとしたのは、まさにクールベの精神を肯定し引き継いだものでした。
翌年1866年のサロンに出品することを目指して制作をしていましたが、作品を完成させることなく、サロンへ出品することはありませんでした。
理由としては、この作品を観たクールベから批判を受けてしまったためとも、クールベは作品を絶賛したけれど単純に間に合わなかったからとも、クールベの助言に従ったものの出来上がりが気に入らず放棄したからだとも言われています。
《草上の昼食》左部分 1865-1866年
男性は、画家バジールがモデルです。
中央の女性は後の妻、カミーユがモデルでは?といわれています。
モネの作品にはマネのような古典からの引用はありません。
マネのような古典絵画に対する尊敬の念がなかったからです。
モネがマネから受けた影響は「現代性」でした。
なぜ絵が分かれているのか?
当初は、1866年のサロンに出品するため、縦4メートル以上、横6メートル以上のとても大きな絵を描いていました。
しかし、クールベに批判されたことがきっかけか、出品を取りやめてしまいます。
その後、1870年後半、経済的に困窮し、家賃を滞納しすぎて家を追い出され、マネから借金をしてアルジャントゥイユからパリに引っ越しました。
その際、家主に借金の担保としてこの絵を渡します。
1884年に、やっと絵を取り戻したときには、大家の保存状態が悪かった(湿った地下室に放り込まれていた)ため、湿気によって絵が激しく損傷しており、これはダメだと、モネ自ら絵を切断、分割し、3枚残しましたが、1枚は行方不明のままです。
モネは中央部分の絵をジヴェルニーのアトリエに飾っていました。
習作
クロード・モネ《草上の昼食(習作)》1865年
練習用に描いた作品です。
この絵が残っていたことによって、全体をある程度推測することが出来ます。