ノスタルジックな風景を描いたお人好しすぎる画家コローを超解説!

こんにちは!

今回は、詩情豊かな森の風景を描いた、お人好しすぎるコローについてです。

早速見ていきましょう!

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796-1875年)

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー《自画像》1835年頃

ジャン=バティスト・カミーユ・コローは、フランスの画家です。

裕福な家庭

母親はパリの有名帽子店経営、父親は布地商という、裕福な家庭に生まれました。

両親が仕事で忙しかったため、4歳までパリ郊外の村に預けられ、11歳のとき中学に入学しました。

このときも、父親の友人のセンヌゴン家に下宿していました。

自然が大好きだったセンヌゴン氏とよく森を散策し、自然を愛する少年に育ちました。

画家へ

平凡な成績で学校を卒業し、19歳のときパリの家に戻ってきました。

画家になりたいとは言い出せず、家業を継ぐため、織物問屋の見習いとして働きながら、アカデミー・シュイスに通いました。

父親がパリ郊外の村ヴィル・ダヴレーに別荘を買い、コローはそこの森をとても気に入り、時間があれば写生に出かけていました。

25歳のとき、嫁いでいたが急死します。

両親は、妹のために用意していたお金1500フランをコローに渡しました。

26歳のとき、父親からの許しを得て、画家を目指し、ジャン・ヴィクトル・ベルタンに学びました。

サロン

29歳のとき、イタリアに私費留学します。

ふつうは教会や巨匠の絵を見て回るのですが、コローは外で写生ばかりしていました。

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー《ナルニの橋》1827年

31歳のとき、イタリアからパリのサロンへ出品した作品が入選します。

自然大大大好き

32歳のとき、パリに戻り、フォンテーヌブローやブルターニュなど各地へスケッチ旅行に出かけました。

春夏秋は外でスケッチをし、冬にはそのスケッチを元にアトリエで大作を描くスタイルでした。

40代も、相変わらずフランス、スイス、ベルギーなどへスケッチ旅行に出かけていました。

コローは陽気で優しく、みんなから好かれていたそうで、その人柄は、各地で泊まるところに不自由しないほどでした。

44歳で初めて絵が売れる

44歳のとき、批評家に認められ、初めて絵が売れました。

47歳のとき、3回目のイタリア旅行で、初めてシスティーナ礼拝堂に行きました。

51歳のとき、ドラクロワがアトリエを訪問しました。

当時ドラクロワは、画壇のトップスター、片やコローは、4歳年上の売れない画家でした。

ドラクロワは「コローの絵こそ本物だ!」とコローを尊敬していたそう。

巨匠になってもお人好し

53歳のとき、サロン審査員になりました。

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー《朝、ニンフの踊り》1850年頃

55歳のとき、上の絵をサロンに出品すると、大評判に。

国家買い上げになり、巨匠と呼ばれるようになります。

巨匠になった証拠に贋作が出回りましたが、なんと贋作に加筆&サインまでしてあげちゃうお人好しぶりを発揮します。

56歳のとき、ドービニーとスイス旅行しました。

59歳のとき、パリ万博最高賞を受賞します。

ピサロが訪問してきました。

66歳のとき、ロンドン万博に出品しました。

クールベと共に制作しました。

ベルト・モリゾが弟子になりました。

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー《モルトフォンテーヌの思い出》1864年

この絵はコローの最高傑作の一つです。

左方向に伸びる木と、右方向に上体を反らす女性を描くことで、画面の中でバランスをとりながら動きを出しています。

暗い近景、明るい中景、暗い遠景を重ねていくことで奥行きを出しています。

この明暗を交互に繰り返す手法は、舞台演出でも使われる照明効果の1つでもあります。

この絵、現代の私たちから見ると、当時の風景を描いたものなのかな〜と思ってしまいますが違います。

女性や子供が着ている服は、絵が描かれた当時の人々の服装では無いため、当時の人から見ると、この絵は時代劇のように見えていました。

当時の批評家たちからは「水蒸気の立ち上がるような灰色だ」といわれ、その画風は「コロー調」と呼ばれていました。

さらに、コローの友人が書いた伝記によると「百貨店『ア・ピグマリオン』では、布地に『コロー色』と名付けて売り出していると聞いて、コローは悪い気はしなかった」と記されています。

「コロー色」は「銀灰色」のことです。

71歳のとき、レジオン・ドヌール勲章を受章します。

痛風と膀胱炎を患い、外に長くいることができなくなりますが、それでも写生を続けました。

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー《真珠の女》1868-1870年頃

73歳のとき、オーヴェール村のドービニー家に滞在します。

上の絵は、コローの家の近所に住む、16歳の古織物商の娘ベルト・ゴールドシュミットがモデルです。

彼女は、コローがイタリアから持ち帰った古風な民族衣装を着ています。

額にかかる髪飾りの小さな葉が真珠に見えたことから、このタイトルで呼ばれるようになりました。

レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》を下敷きにしています。

コローは、この絵を気に入り、生涯手放すことはありませんでした。

戸外で写生ができない冬の間や、体調を崩した晩年に、好んで人物画を描きましたが、生前、ほとんど人物画を公表することはありませんでした。

巨匠となり裕福だったコローですが、そのお金を自分に使うより、売れず苦しんでいたドービニーやミレー未亡人など困っている友人への支援や寄付に回しました。なんていい人なの…!

森を守るために兵器を購入

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー《ヴィル・ダヴレーの森》1835-1840年

フランスとドイツとの間で戦争が勃発し、ドイツ軍がフランスへとなだれ込んできました。

コローが生涯にわたって愛し描き続けてきたヴィル・ダヴレーの森を戦火から守るために、私費を投じて大砲を購入しました。

自分で敵を倒そうとするするの強いな…。

コローの思いが通じたのか、この森は戦禍を免れ、現在も美しいまま残っています。

そして78歳で亡くなりました。

印象派に多大な影響を与えた

モネの、「ここにはただ1人の巨匠しかいない。コローだ。彼に比するものをもっている者はどこにもいない」という言葉を残していることからもわかるように、のちの印象派の画家たちに大きな影響を与えました。

ピサロやセザンヌ、マティスやピカソもコローに影響を受けています。

まとめ

コローは、お人好しでノスタルジーな風景を描き続けた画家