こんにちは!
今回は、かなりの毒舌家だったデ・キリコについてです。
早速見ていきましょう!
ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978年)
ジョルジョ・デ・キリコ《自画像》1925年
ジョルジョ・デ・キリコは、イタリアの画家です。
ギリシャのヴォロスで生まれました。
絵が好き
ジョルジョ・デ・キリコ《幼児の脳中》1914年
両親は貴族で、父親は鉄道技師でした。
上の絵は父親がモデルだといわれています。
3歳のとき、弟が生まれました。
幼い頃から絵が好きで、顔に十字線を引いて目鼻の位置を決めることを教えたのは父親でした。これが後に描くようになるマネキンの原型になっています。
12歳のとき、アテネの理工科学校に通いました。
この頃最初の静物画を描きました。
17歳のとき、父親が亡くなりました。
絵の道へ
ジョルジョ・デ・キリコ《母親の肖像》1911年
母親がキリコに絵画の勉強をさせることを決意し、キリコと弟とミュンヘンへ移ります。
18歳のとき、美術アカデミーに入学しました。
キリコはクリンガーやベックリンを研究し、ニーチェなどの哲学にも影響を受けました。
憂鬱と形而上絵画
22歳のとき、両親の故郷イタリアのフィレンツェへ母親と移ります。
弟はパリへ移住しました。
この頃のキリコは腸疾患とうつ状態が長く続きました。
最初の形而上絵画を手がけました。
形而上絵画とは、見慣れていたものが、いつもとは違った感じに見えるように描かれた絵のことです。
普段見慣れているはずの広場や旗などを、今までに見たことがないもののように描きました。
「イタリア広場」の連作を描き始めます。
23歳のときパリへ行きました。
「謎以外になにが愛せようか」
ジョルジョ・デ・キリコ《ある秋の午後の謎》1910年
「謎以外になにが愛せようか」という哲学者ニーチェの言葉を、デ・キリコはこよなく愛していました。
ジョルジョ・デ・キリコ《神託の謎》1910年
24歳のとき、上の作品2点を、サロン・ドートンヌに出品しました。
《神託の謎》の左側の人物は、ベックリンの《死の島》から用いています。
ジョルジョ・デ・キリコ《赤い塔》1913年
25歳のとき、上の絵が初めてサロン・ドートンヌで売れました。
アポリネールやピカソ、ブラックやローランサンなど画家や詩人と出会いました。
予言の絵?
ジョルジョ・デ・キリコ《ギヨーム・アポリネールの肖像》1914年
特にアポリネールは「キリコの絵は謎そのものだ」と作品を絶賛しました。
上の影の人物の頭に、射撃の的のようなマークがあることから、後のアポリネールの事故(この絵の2年後、戦場で頭を負傷)を予言していたのでは?!とシュルレアリストたちにもてはやされました。
麻薬効果…
ジョルジョ・デ・キリコ《愛の歌》1914年
上の絵の複製を見て感激して泣いたのが、あのマグリットです。
マグリットの不思議な雰囲気はキリコの作品がきっかけでした。
ジョルジョ・デ・キリコ《通りの神秘と憂愁》1914年
27歳のとき、第一次世界大戦が勃発し、イタリア軍に召集されフィレンツェの連隊に入隊し、北イタリアのフェッラーラに駐屯しました。
当時のフェッラーラは繊維工場が発する麻を煮る臭いが充満する街で、その麻薬効果が当時描いていた風景画に影響したと考えられています。
キリコはうつ状態が悪化し軍病院に入院しました。
ケンカ
ジョルジョ・デ・キリコ《素晴らしい形而上学的なインテリア》1917年
29歳のとき、フェッラーラで画家のカッラと出会い意気投合した2人は、形而上絵画を模索する形而上派が生まれ、その後、モランディも加わりました。
ジョルジョ・デ・キリコ《不安を与えるミューズたち》1947年
絵画に、彫像や縫製用のマネキンなどキリコらしいモチーフが登場し始めます。
上の絵は、1916年に描いた絵を後年になって複製した作品です↓
30歳のとき、「形而上絵画」を出版したカッラと対立し、形而上派は解散…。
31歳のとき、ローマで個展を開きましたが、美術史家のロベルト・ロンギに酷評されます。
作風がガラリと変わって…
ジョルジョ・デ・キリコ《海沿いの馬》1926年
ティツィアーノの作品の前で新たな啓示を受け、興味は形而上的なものから古典的なものにうつりました。
ルネッサンス絵画の模写、古典技法を研究し始めました。
しかし、この転向は周りからは理解されず、画廊主からは形而上の絵を求められました。
33歳のとき、テンペラ画を描き始めました。
2度の結婚
35歳のとき、ローマ・ビエンナーレに出品し、フィレンツェ、ローマに住みました。
36歳のとき、ロシアのバレリーナ、ライサ・グリエヴィッチ・クロルと結婚しました。
第14回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品しました。
37歳のとき、パリへ戻ります。
38歳のとき、ニューヨークで初の個展を開催しました。
42歳のとき、2番目の妻、ロシア人のイザベラ・パックスワー・ファーと出会い、一生一緒に暮らしました。
43歳のときミラノへ、44歳のときフィレンツェへ、47歳のときニューヨークへ、50歳のときイタリア、ローマそしてミラノへ、54歳のときまたフェレンツェへ、56歳のときローマへ移住しました。引越し多いな…。
真贋で揉める
58歳くらいから、真贋で揉めに揉めます。
画商がキリコの元に絵を持ってきて「証明」してほしいと言うと、「それは偽物だ!」とその絵を贋作として差し押さえ、焼却しようとして訴えられました。
来歴がはっきりしている作品だったため、間違いなくキリコの作品だ、ということでキリコには罰金33万リラを支払うことに…(それでもまだ認めないキリコ…笑)
60歳のとき、ヴェネツィア・ビエンナーレを、審査方法及び贋作があると非難します。
67歳のとき、パリ国立美術館所蔵のキリコの作品を、贋作だと訴えました。
美術館側は、記者会見を開いて「偽物ではないけど外します」と釈明するはめに…。
贋作騒ぎが広まり、キリコの元には真贋を問う手紙が殺到し、どれもこれも偽物だとわめきます…。
なぜそんなことをしたのかは謎ですが、昔の自分の作品の出来栄えに納得していなかったのかもしれません。(というのも、昔の作品を複製していたので)
87歳のとき、フランス美術アカデミー会員になりました。
90歳のとき、病院での長い闘病の末亡くなりました。
まとめ
・キリコは、謎に満ちた形而上絵画を生み出した画家