都会の孤独感を描いた画家ホッパーを超解説!

こんにちは!

今回は、都会の中の孤独感を描いた画家ホッパーについてです。

早速見ていきましょう!

エドワード・ホッパー(1882-1967年)

エドワード・ホッパー《自画像》1925-1930年

エドワード・ホッパーは、アメリカの画家です。

女性が強い家

ニューヨーク北部のハドソン川沿いのヨット建造センターであるナイアックの、裕福な家庭に生まれました。

両親はオランダ系で、先祖ほど成功していませんでしたが、乾物商の父は、妻の相続もあってお金に余裕があったため、子供の教育に力を入れていました。

父親は穏やかな性格で、ホッパー家は、母親、祖母、姉妹、メイドなど女性が優位な家庭でした。

ホッパーは私立と公立の両方の学校に通い、厳格なバプテストの家で育ちました。

すでに上手い

父親の知的傾向とフランスやロシア文化への愛情をすぐに吸収し、また母親から芸術的な才能も引き継いでいました。

子供時代から優秀で、5歳のときには既に絵の才能を示していました。

両親は芸術を奨励し、教育雑誌図鑑などをたくさん買い与えました。

エドワード・ホッパー《犬のスケッチ》1893年

10歳のとき、初めて自分の絵に署名し、日付を記入し始めました。

花瓶、ボウル、カップ、船などを好んでスケッチしていました。

13歳のとき、自分の最初の署名入りの油絵、《ロッキー入り江のローボート》を制作しました。

初期の自画像では、ホッパーは自身を痩せた、無骨で地味な青年に描く傾向がありました。

画家への道

高校時代は海軍建築家になることを夢見ていましたが、卒業後は芸術のキャリアを続けることにしました。

両親は、商業芸術を学んで手に職をつけるようアドバイスしました。

17歳のとき、通信教育コースで美術の勉強を始め、その後ニューヨーク美術学校に転校しました。

そこで6年間学び、油絵の指導をした画家ウィリアム・メリット・チェイスたちから学びました。

エドワード・ホッパー《エドゥアール・マネの「笛を吹く少年」と2つの頭部スケッチ》1900-1907年

ホッパーは早い段階で、チェイスと印象派の巨匠マネドガを模倣し、自身のスタイルを形成していきました。

モデルをスケッチすることは、保守的に育てられたホッパーに衝撃と挑戦を与えました。

ホッパーのもう一人の教師、画家ロバート・ヘンライは写生を教えました。

ヘンライは、生徒たちに自分のアートで「世界をかき混ぜる」よう奨励し、「主題とは数えることではなく、それについて感じること」と「芸術を忘れて、あなたの人生に興味のあるものの絵を描くこと」と生徒に助言し、作品に現在の精神を吹き込むことを奨励しました。

エドワード・ホッパー《劇場の孤独な姿》1902-1904年

上の作品は、インテリアを主題とした現存する最初の油絵です。

イラスト嫌い

エドワード・ホッパー《ニューヨークエジソンカンパニーの会報》1906-1907年

23歳のとき、広告代理店でアルバイトを始め、業界誌カバーデザインを担当しました。

40歳くらいまで、経済的必要性によってそれに拘束され、イラストを嫌うようになりました。

自分らしさを模索

ヨーロッパに3回旅行し、絵を勉強しに行きましたが、実際には芸術の新しい流れにほとんど影響を受けませんでした。

ピカソについては特に何も思わなかったホッパーも、レンブラントの作品、特に《夜警》には非常に感銘を受け、「私が見た彼の作品の中で最も素晴らしいものだ」と後に語っています。

最後のヨーロッパ旅行から戻った後、ニューヨークで部屋を借り、そこで自分のスタイルを確立しようとしましたが、何を描けばいいのかわからず、苦悩を募らせていました。

生計を立てるために仕方なく、イラスト業に戻りました。

ホッパーはフリーランサーであったため、仕事を得るために雑誌社や代理店のドアを叩き、仕事を頼んで回らなければなりませんでした。

30歳のとき、インスピレーションを求めてマサチューセッツ州のグロスターを旅し、アメリカで自身の最初の屋外絵画を制作しました。

なかなかうまくいかない

エドワード・ホッパー《セーリング》1911年

31歳のとき、美術展覧会で、ホッパーは昔描いた自画像を塗りつぶして描いた上の絵を販売し、初めて画家として250ドルを得ました。

これでどんどん絵が売れるようになるかと思いきや、彼のキャリアはその後何年もうまく行くことはなく、ニューヨークの小さな会場でのグループ展に参加し続けました。

父親が亡くなってすぐ、その後の人生を過ごすこととなるマンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジにあるワシントン・スクエアのノース・アパートメントに転居しました。

映画と演劇大好き

32歳のとき、いくつかの映画ポスターを製作し、映画会社のプロモーションを行う仕事を委託されました。

映画や演劇の熱狂的ファンだったホッパーは、どちらも絵の主題として扱っており、それぞれが彼の作風に影響を与えています。

新たな道

33歳のとき、ホッパーは油絵に行き詰まり、エッチングに目をつけました。

41歳までに約70作品のほとんどをエッチングで制作し、パリとニューヨークの両方の都市の風景画を多くを制作しました。

また、時おり商業作品の製作を続けながら、戦争運動のためのポスターをいくつか作成しました。

余裕があるときにはニューイングランド、特にオガンキットの芸術村とモンヒガン島を訪れ、屋外の水彩画を制作しました。

エドワード・ホッパー《フン族を粉砕する》1918年

36歳のとき、上の戦争ポスターで米国海運委員会賞を受賞しました。

徐々に認められるように

エドワード・ホッパー《ニューヨークレストラン》1922年

35歳のとき独立アーティスト協会、38歳と40歳のときにはホイットニースタジオクラブ(後のホイットニー美術館)で個展が開かれました。

41歳のとき、エッチングに対してエッチャーズシカゴ協会からローガン賞W. A.ブライアン賞の2つの賞を受賞しました。

名声を手に入れたホッパーでしたが、自分のキャリアについて苦々しさを心に抱き続け、その後は人前に出ることや受賞を断っていました。

結婚

エドワード・ホッパー《ジョー ペインティング》1936年

マサチューセッツ州グロスターでの夏の絵画旅行の間に、ロバート・ヘンライの元教え子だったジョゼフィーン・ニビソンに再会しました。

ホッパーは背が高く、内気で、内省的かつ保守的であったのに対し、ジョゼフィーンは背が低く、オープンで、社交的で寛大な性格でした。

全く正反対の二人は1年後に結婚しました。

彼女は彼のキャリアとインタビューを管理し、ホッパーの主要なモデルであり、生涯の伴侶となりました。

ジョゼフィーンは彼の多くの絵にポーズをとりましたが、正式な油絵の肖像画として描かれたのは上の絵だけでした。

絶賛

エドワード・ホッパー《マンサード屋根》1923年

ジョゼフィーンの助けを借りて、ホッパーのグロスターの水彩画6点が、ブルックリン美術館の展示会に出品されました。

そのうちの1つである上の作品は、永久コレクションとして100ドルでブルックリン美術館が購入しました。

批評家たちは皆、彼の作品を絶賛しました。

42歳のとき、個展で出品したすべての水彩画が売れ、遂に商業イラストを辞めることができました。

エドワード・ホッパー《Two on the Aisle》1927年

上の作品は、自己最高額の1,500ドルで売れました。

そのおかげで自動車を購入することができ、ニューイングランドへの絵画旅行に使用しました。

エドワード・ホッパー《線路脇の家》1925年

48歳のとき、パトロンのスティーブン・クラークは、上の作品を、ニューヨーク近代美術館初の油彩コレクションとして寄贈しました。

名声

エドワード・ホッパー《日曜日の早朝》1930年

大恐慌の時代でしたが、49歳のとき、ホイットニー美術館やメトロポリタン美術館などの主要な美術館が彼の作品に数千ドルを支払い、ホッパーの名声は急上昇しました。

さらに、ホッパーは水彩画13点を含む30点の絵画を販売しました。

50歳のとき、最初のホイットニー・ビエンナーレに参加し、その後生涯を通じて毎年展示し続けました。

51歳のとき、ニューヨーク近代美術館は初めてホッパーの大規模な回顧展を開催しました。

48歳のとき、ホッパー夫妻はケープコッドのサウストルロにコテージを借りました。

毎年夏をそこで過ごし、52歳のときに夏用の家を建てました。

ホッパーが絵の題材を探す必要があるときは、夫妻はそこから他の地域へ車で旅行することもありました。

エドワード・ホッパー《バーモント州ホワイトリバーの最初の支流》1938年

55歳と56歳の夏、夫妻はホッパーがホワイトリバーの連作の水彩画を描いたバーモント州サウスロイヤルトンのワゴンホイール・ファームに長期滞在しました。

これらの風景はホッパーの成熟した作品の中では典型的ではなく、ほとんどが「純粋な」風景で、建築物や人物が見当たりませんでした。

都会の孤独感

《夜の窓》1928年

生涯の大部分をニューヨークで過ごしたホッパーは、煩わしい人間関係を嫌って、他人との付き合いをほとんどしなかったといわれています。

そんなホッパーの楽しみは、夜ごとの散歩でした。

エドワード・ホッパー《夜のオフィス》1940年

上の絵をよく見ると、壁の色が微妙に違うことに気付くかと思います。

ホッパーはこの絵について「窓から明かりが入って室内が明るく見えた」と言っていることから、ビルのそばを通過する高架電車の中から見えた、一瞬の風景にインスピレーションを得て描いたことがわかります。

エドワード・ホッパー《ナイトホークス》1942年

大都会の夜の闇に浮かび上がる風景に、ホッパーは、誰もが抱える心の影を描き出そうとしたのかもしれません。

この絵の解説はこちら↓

エドワード・ホッパー《ホテル・ロビー》1943年

1930年代から1940年代初頭にかけては非常に精力的に活動し、数多くの傑作を生み出しました。

体調悪化

エドワード・ホッパー《劇場の一列目》1951年

その後の20年間、ホッパーの健康状態は悪化し、前立腺手術やその他いくつかの健康的問題を抱えました。

84歳のとき、ホッパーはニューヨーク市のワシントンスクエア近くの自身の住居で亡くなりました。

妻のジョゼフィーンは10か月後に亡くなり、ホッパーと一緒に埋葬されました。

ジョゼフィーンは、3000点を超える作品の共同コレクションをホイットニー美術館に遺贈しました。

また、ホッパーの出生地と少年時代の家は2000年に国家歴史登録財に登録され、現在は、展示会、ワークショップ、講演会、公演、特別イベントを開催する非営利コミュニティ文化センター「エドワード・ホッパー・ハウス・アートセンター」になっています。

まとめ

ホッパーは、都会の孤独感を描いた画家