こんにちは!
今回は、クロード・ロランについてです。
早速見ていきましょう!
クロード・ロラン(1600または1604/5-1682年)
クロード・ロラン『真実の書』より《自画像》とされるクロードの肖像 1635-1682年
クロード・ロランは、フランスの画家です。
ロレーヌ地方、シャマーニュの貧しい家にの5人兄弟の三男として生まれました。
本名は、クロード・ジュレで、ロレーヌ地方出身なので「ロラン」と呼ばれていました。
孤児
12歳のとき、両親が亡くなり孤児になり、木彫り職人の兄とフライブルクに移住しました。
兄はロランにデッサンを教えました。
その後、生計を立てるためローマ、さらにナポリへと移住しました。
15歳のとき、ナポリのゴフレード・ウァルスのもとで2年間修行しました。
21歳のとき、ローマに戻り画家アゴスティーノ・タッシ(弟子の画家アルテミジア・ジェンティレスキを襲った犯罪者)に師事しました。
タッシのもとを離れた後、幾多の災難に見舞われながらも、生地ロレーヌ地方の他、イタリア、フランス、ドイツを旅しました。
パティシエだった?
というのがロランの初期の出来事ですが、実はもう一つ別の説があり、こちらの方が人気だったりします。
どういう内容かというと…
クロードは学校の成績が悪く、菓子職人を目指し、お菓子屋さん(パン屋さん)の見習いになりました。
というのも、住んでいた地ロレーヌは、パティスリーで有名でした。
クロードは、菓子職人の資格を習得し、同僚の料理人やパン職人たちと共に、ローマに旅行し、最終的には画家タッシに召使い兼料理人として雇われました。
タッシは、ある時点で彼を見習いに変え、絵を教えた、というものです。
法王がパトロンに
クロード・ロラン《海から見たジェノヴァ港》1627-1629年
ロレーヌ公の宮廷画家カール・ダーバントは、ロランを1年間助手として雇い、ナンシーではカルメル会教会の天井に建築物を描いています。
23歳のとき、ロランはローマに戻り、グイード・ベンティボグリオ枢機卿の為に2つの風景画を描きました。
これを見たベンティボグリオ枢機卿が絵に感銘を受け、ローマ法王ウルバヌス8世にロランを紹介したことから、法王がパトロンになりました。
風景画家
クロード・ロラン《国会議事堂のある港の眺め》1636年
33歳頃から急速に、風景画家、海景画家としての名声を高めていきました。
同じフランス人の画家プッサンとも交友があり、カンパーニャ・ロマーナを共に旅しています。
クロード・ロラン《夕暮れの港》1639年
2人共、風景画家と呼ばれていますが、プッサンの風景は人物の背景である一方、ロランの絵では人物は片隅に描かれるものの、絵の本当の主題は陸地、海、空ででした。
ジャック・クルトワやフィリッポ・ラウリなど、他の画家に人物の描画をしばしば依頼していました。
というのも当時は、のちの印象派のように「本当に風景だけを描いた絵」を描くことはできない(需要が無い、美術業界で認められないなどなど)ため、ロランは、明らかに風景をメインで描きつつも、小さく人物を描くことで、これは物語絵だ、ということにしていました。
なので、絵の購入者には、自分は風景を売ったが人物はおまけだと言っていたとか。
クロード・ロラン《聖ウルスラの乗船》1641年
クロード・ロラン《シバの女王の乗船》1648年
真実の書
クロード・ロラン『真実の書』より《シバの女王の乗船》1648-1682年
32歳頃、同じ主題の繰り返しを避ける目的と、自分の作品の良質な複製を提供するため、彼は各国に送られた自分のほぼ全ての作品を淡彩入りのドローイングで複製し、裏面には購入者の名前を記載していました。
ドローイングをまとめて本を出し、この本をロランは『真実の書』と名づけました。
この貴重な作品は銅版画に複製出版され、後の風景画家の模範となりました。
養子と甥と一緒に暮らす
クロード・ロラン《キューピッドの宮殿の外にいるプシュケの風景(魔法の城)》1664年
54歳のとき、孤児のアグネーゼを養子にしました。
クロードは生涯結婚しませんでしたが、彼女は召使いとクロードの娘(姪の可能性も)だったかもしれないといわれています。
その後、ロランのもとには、甥が2人やってきて一緒に暮らしました。
59歳のとき、痛風に苦しんでいたクロードは、重病にかかり、健康状態が非常に悪化し、遺言書まで作成していましたが、なんとか回復します。
しかし、それ以降あまり絵を描くことはありませんでした。
クロード・ロラン《シルビアの雄鹿を撃つアスカニウスのいる風景》1681-1682年
そして78歳のとき、亡くなりました。
彼の莫大な遺産は、甥と養子の娘に残されました。
まとめ
・ロランは、理想郷を描いた画家