こんにちは!
今回は、日本でとっても人気のある画家フェルメールについてです!
早速見ていきましょう!
目次
ヨハネス・フェルメール(1632-1675年)
ヨハネス・フェルメール《取り持ち女》1656年
ヨハネス・フェルメールはオランダの画家です。
フェルメールの謎
オランダのデルフトで生まれ、生涯ここで過ごしました。
ルネサンス以降で自画像を描かなかった画家はきわめて珍しく、フェルメールはそのなかの1人でした。(上の絵の左端がフェルメールの自画像だという説も)
自画像だけでなく、手紙や日記も残っていません。
公証記録によってある程度どんな人生を歩んだのか推測できるものの、子だくさんで、年中騒がしかったはずの仕事場で、どうやってあの「静謐」な作品を作り出したのでしょうか…。
オランダ黄金時代
17世紀のオランダは、海洋貿易で黄金期を迎えていました。
その勢いは、当時、ヨーロッパの船の7割以上がオランダで建造されたと言われるほどのものでした。
独裁的な宮廷政治は行われず、商業貴族たちによる共和制で成り立っていたため、教会の力も弱く、首都アムステルダムの人口は20万人強いました。
これは、ロンドン、パリに次ぐヨーロッパ第三の都市でした。
画家の数も多く、最盛期にはアムステルダムだけで700人もいたそう。
作品数でいうと、1600〜1800年の間で、一千万点も製作されたといわれています。
王侯や教会といった大口発注者がいなかったため、ほとんどが市民の好みにあった小型風俗画で、値段も安かったため、数が多かったようです。
そんな状況だったので、画家たちは生き残りをかけて、それぞれ花だったり船だったりと描くものが専門化していきました。
画家だけだと生計をたてられないので、画商や宿屋など副業する人も多かったそう。
いろんな仕事をしていた父親
父親は、絹織物業、画商、そしてパブと宿屋を営むなど幅広く事業を展開していました。
9歳のとき、父親が新たに購入した宿屋「メーヘレン」で、多数の美術品を展示し、富裕層を相手に商売していました。
父親は当時の有名画家たちと交流があったと記録に残っており、フェルメールが絵画に触れ合いやすい環境にいたことが想像できます。
15歳頃から約6年間、故郷デルフトを出て、親に高い授業料を払ってもらって聖ルカ組合(当時はこの組合に入ることで一人前の画家と認められた)の画家に弟子入りしました。
この修業時代の情報が残っていないため、誰に教えてもらっていたのかはわかっていません。
当時の画家修業にかかる費用はかなり高額で、平均年収の約3倍の稼ぎがないと子供を画家にはできなかったといわれています。
このことから、フェルメールの父親の事業がある程度成功しており、比較的裕福な家庭だったと推測することができます。
20歳のとき、父親が亡くなり、デルフトへ戻り家業を継ぎますが、借金を抱えるほど経営は悪化していました…。
裕福な家の娘と結婚するが…
21歳のとき、1歳年上の裕福な家の娘カタリーナと結婚しました。
しかし、当初カタリーナの母親が、結婚に猛反対していました。
義母の承認を得るのに8年もかかったという説もあるほど…。
というのも、フェルメールはカルヴァン派のプロテスタント、カタリーナはカトリックでした。
また、借金を抱えるフェルメールに対し、カタリーナ側は名門の資産家の家系出身と、家柄が自分たちとは釣り合わないと考えました。
なのでフェルメールは後に密かにカトリックに改宗したという説もあります。
もしカトリックに改宗していたのだとしたら、それが作品に反映されているのか、いないのか…。(反映されていなければ見たままの絵、反映されているのだとしたら絵に描かれている以上のことを深読みできるため)
結婚から8ヶ月後、聖ルカ組合認証の画家のもとで6年間の修業という組合の規定を満たしたフェルメールは、デルフトの聖ルカ画家組合の「親方画家」として登録されました。
これによって、自作への署名、デルフト市内で自由に自作を売る権利、弟子をとることが許され、一人前の画家としての人生が始まります。
たくさんの子供と裕福な義母と一緒に暮らす
結婚当初はメーヘレンで暮らしていましたが、その後なぜか一家は、カタリーナの実家で義母と一緒に暮らしています。
理由はよくわかっていませんが、子供が15人生まれ(人数については諸説あり、内4人は夭折)たため、フェルメールの稼ぎでは養えなかったからでは?といわれています。
また、22歳のとき、デルフトの火薬庫が大爆発する事故が発生し、経済が悪化したことも理由の一つではと考えられています。
物語画から風俗画へ
ヨハネス・フェルメール《マリアとマルタの家のキリスト》1654-1656年頃
フェルメールは当初、宗教画や歴史画などの物語画を描いていました。
当時、絵画にはヒエラルキーがあり、物語画が最高位でした。
なぜかというと、描かれる人物が偉い人であり、これを欲しがるのも偉い人であり、画家の教養がないと描けない主題だからです。
しかし、17世紀中ごろのオランダでは、市民が家に絵を飾る習慣があり、難解な物語画よりも、風俗画の方が人気がありました。
そこでフェルメールも風俗画を描くようになりました。
宝石ラピスラズリを絵の具として愛用
ヨハネス・フェルメール《牛乳を注ぐ女》1660年
父親から継いだ家業での収入やパトロン、裕福な義母のおかげで、当時純金と同じくらい高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを絵にたくさん使用できたと考えられています。
上の絵でも、そんなフェルメール・ブルーが使われていますね。
隠されていた絵
ヨハネス・フェルメール《窓辺で手紙を読む女》1659年 修復前
近年大発見のあった絵なんです!
何者かによって壁の部分が塗りつぶされていて、それを除去したら下からあるものが浮かび上がってきて…
くわしくはこちら↓
最大のパトロン
ヨハネス・フェルメール《真珠の首飾りの女》1662年
25歳のとき、生涯最大のパトロンである、デルフトの醸造業者で投資家だったピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンと出会います。
彼はフェルメールを支え続け、フェルメールの作品を21点所持していました。
彼の援助があったからこそ、年間2、3作という寡作でも生活できていたのだと考えられています。
ヨハネス・フェルメール《青衣の女》1663年
大航海時代の到来で航海が発達すると、オランダでは数多くの地図が刊行され、一般家庭でも壁に飾っていました。
ヨハネス・フェルメール《天秤を持つ女》1664年
風景画が一番人気
ヨハネス・フェルメール《デルフトの小路》1658年
ヨハネス・フェルメール《デルフト眺望》1660-1661年
パトロンが亡くなってから20年後、コレクション21点が初めてオークションに出されました。
その時の一番人気はこの《デルフトの眺望》でした。
28歳のとき、子供が亡くなりました。
この頃から、義母マーリアと同居を始めています。
史上最年少で理事に
30歳のとき、史上最年少で聖ルカ組合の理事に就任します。
31〜32歳のとき、フランス人コレクターのバルカダール・ド・モンコニーがやってきましたが、作品の値段が高すぎると言われてしまいます。
フェルメールの元を訪れたコレクターは彼だけでした。
35歳のとき、ブレイスウィック著『デルフト市誌』に掲載されたアルノルト・ボンの詩の中で、デルフトを代表する画家ファブリティウスの後継者(彼は火薬庫爆発事故で死亡)として称賛されました。
同じ年、子供が亡くなりました。
37歳のとき、ハーグの若者がフェルメールの作品を見にデルフトを二度訪れました。
同じ年、子供が亡くなりました。
真珠の耳飾りの少女
ヨハネス・フェルメール《真珠の耳飾りの少女》1665年
フェルメール一番人気の作品ですね!
詳しい解説はこちら↓
最後まで手元に残した絵
ヨハネス・フェルメール《絵画芸術》1666-1668年
38歳のとき、聖ルカ組合の理事に再度就任します。
2度にわたって理事に選出されることは、非常に珍しいことだったので、生前から画家として高い評価を得ていたことがわかります。
同じ年、母、姉が亡くなりました。
悲惨な結末?
ヨハネス・フェルメール《ヴァージナルの前に座る女》1670-1672年頃
40歳のとき、デルフトの画家を代表して、ハンス・ヨルダーンスと共にイタリア絵画の鑑定のためハーグを訪れました。
この年、フランスのオランダ侵攻によって戦争が勃発し、経済が悪化します。
さらにフェルメールとは違った画風の若手画家の台頭によって、人気も低迷…。
不動産業や金融業を営み裕福だった義母も、戦争によって資産が減り、フェルメールの絵も、戦争勃発後1点も売れませんでした。
41歳のとき、借金返済のため多額の債権を売却しました。
大量に抱えた負債をなんとかしようと必死で駆け回りましたが、どうにもならず、フェルメールは店も家も失ってしまいます。
42歳のとき、娘のマーリアが結婚しました。
そして43歳(または42歳)のとき、妻と11人の子供を残して、妻の実家で亡くなりました。
11人中8人の子供はまだ未成年でした。
死因は不明です。
のちの妻の証言から、うつ病が死の引き金になったのではないかとも考えられています。
上の絵は、フェルメールの絶筆です。
愛想が尽きた…?
フェルメールの死後、妻カタリーナは自己破産を申請し、所有していた夫の作品も負債返済のために手放しました。
彼女は過酷な生活の末、フェルメールの死後12年後に56歳で亡くなりました。
これ不思議なのは、戦争で資産が減ったとはいえ、カタリーナの母の財力をもってすれば、娘の借金なんて容易に肩代わりできたはずなんですよね〜
やっぱりフェルメールとの結婚には反対で、いろいろ許せなかったのでしょうかね…。
カタリーナの母は、フェルメールの莫大な夫妻から孫たちを守るため、遺産を直接孫たちに手渡ししています。孫は可愛いと。(とはいえこれにも諸説あり、カタリーナが実母から土地財産を継いでいたとの説も)
忘れられた画家?
死後20年以上経った1696年の競売の時点では、フェルメールの作品は高値が付いています。
しかしその後急速に、フェルメールの名は忘れ去られてしまいます。
その理由としては、作品数が少ないうえに、それらが個人コレクションだったので、知っている人が少なく、広まらなかったからです。
また、画風も日常の光景や風景だったので、美術の権威であるアカデミーにあまり評価されなかったことも関係しているかもしれません。(アカデミーは宗教画!歴史画!みたいなお堅い絵がすき)
没後約200年後、1866年になって、フランスの美術評論家トレ=ビュルガーによって見出され、フェルメールは人気に。そして今に至ります。
まとめ
・フェルメールは、光や質感を表現する天才 ・日本で異常に人気がある