こんにちは!
今回は、巨匠を育てた巨匠ヴェロッキオについてです。
早速見ていきましょう!
アンドレア・デル・ヴェロッキオ(1435-1488年)
アンドレア・デル・ヴェロッキオは、イタリアの画家です。
本名は、アンドレア・ディ・ミケーレ・ディ・フランチェスコ・チオーニで、「ヴェロッキオ」は「本物の目」という意味のあだ名です。
投げた石が当たって死ぬ
フィレンツェで生まれました。
父親はレンガ職人で、後に税務官になりましたが、経済的に貧しく、長男であったヴェロッキオは弟や妹を養うためにすぐにでも働かなければなりませんでした。
生まれてから修行時代の頃まではよくわかっていません。
17歳のとき、仲間同士で喧嘩をしていた最中に、相手の頭に石を投げつけて殺してしまいます。
裁判の結果、過失で無罪になりました。
この傷害致死事件に関する記録が、ヴェロッキオについて残っている最初の記録でした。
絵画、金工、石工、木工とマルチに
その後、メディチ家お抱えの彫刻家ドナテッロに弟子入りしたとされています。
彫刻家ギベルティの工房で、金工を身につけました。
26歳のとき、オルヴェイエート大聖堂の祭壇彫刻コンペに参加しましたが、落選しました。
アンドレア・デル・ヴェロッキオ《聖トマスの懐疑》(フィレンツェのオルサンミケーレ教会の外壁にあるニッチのレプリカ)1467-1483年
31歳のとき、オルサンミケーレ聖堂の上の作品を依頼されました。完成は48歳のときでした。
アンドレア・デル・ヴェロッキオ《コジモ・デ・メディチの墓》1464-1467年
32歳のとき、サン・ロレンツォ聖堂にコジモ・デ・メディチの床面墓標を制作しました。
稀代の良師と呼ばれた
アンドレア・デル・ヴェロッキオ《聖母子像》1465-1470年
34歳のとき、石工・木工師組合に登録し、親方として工房を開き、画家としても認められました。
元々ヴェロッキオの専門は彫刻でしたが、絵画や版画、鋳造、機械工学、数学、音楽の才能もありました。
そのため彼の工房では、絵画、彫刻、装飾工芸品、楽器、教会の釣鐘、大理石の水盤、馬上槍試合用の軍旗や兜、大砲、仕掛け花火など、ありとあらゆるものの注文を受けていました。
アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房《トビアスと天使》1470-1475年頃
当時、フィレンツェはイタリア最大の商業都市で、芸術愛好都市でもあったため、画家・彫刻家の工房が50以上もありました。
その中でも1番有名で繁盛していたのが、ヴェロッキオの工房でした。
アンドレア・デル・ヴェロッキオと助手(ロレンツォ・ディ・クレディ)《聖母子と二天使》1470-1474年
弟子の才能をよく把握し伸ばすことに長けていたヴェロッキオの工房には、前途有望な若い芸術家たちが大在集まりました。
助手や弟子の中には、ボッティチェリやペルジーノ、ギルランダイオ、そして15歳のレオナルドがいました。
上の絵は、レオナルドとペルジーノも手伝っている可能性があるそう。
アンドレア・デル・ヴェロッキオ《ダヴィデ像》1465年
上のダヴィデ像のモデルは、レオナルドだといわれています。
ちなみに、ペルジーノは後にラファエロを、ギルランダイオはミケランジェロを弟子にしています。
アンドレア・デル・ヴェロッキオ《イルカと天使》1470年頃
イルカの口が噴水になっています。
このような、360度どこから見ても完璧な像は、15世紀初でした。
この頃には、メディチ家をパトロンにつけ、次々と注文をこなしました。
レオナルドの絵の上手さにびっくりする
アンドレア・デル・ヴェロッキオ、レオナルド・ダ・ヴィンチ《キリストの洗礼》1470-1475年
35歳のとき、レオナルドと、上の作品を共作しました。
レオナルドの描いた天使があまりにもうますぎたため、その才能に驚いたヴェロッキオはそれ以来、絵を描くのをやめてしまった、という伝説的逸話がありますが、これは半分本当で半分嘘です。
実際に、これ以降ヴェロッキオが描いた絵は見つかっていませんが、レオナルドの絵に衝撃を受けてというよりも、元から彫刻メインだったヴェロッキオが、彫刻に専念することにしたタイミングと偶然に一致しただけなのではと考えられています。
レオナルドとの関係も悪化することはありませんでした。(師匠より弟子が上手いと関係が壊れがち)
彫刻に専念する
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
36歳のとき、建設中だったサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドームの頂上にのせる巨大な玉をブロンズで制作しました。
ルネサンスの象徴といわれるドォーモは、ヴェロッキオの作ったブロンズの球と十字架をかかげて完成しました。
41歳のとき、パトロンのロレンツォ・メディチと弟のジュリアーノが対抗勢力の刺客に襲われるパッツィ家陰謀事件が起こりました。
ジュリアーノは亡くなり、ロレンツォは傷を負いながらもなんとか逃げ出すことができまいsた。
負傷したロレンツォの傷が早く治るようにと治癒祈願の蝋人形を制作しました。
アンドレア・デル・ヴェロッキオ《洗礼者聖ヨハネの斬首》1477-1480年
42歳のとき、フィレンツェ礼拝堂の祭壇装飾の浮彫りを依頼され、45歳のときに完成させました。
《ニッコロ・フォルテグエッリ記念碑》
43歳のとき、ピストイア大聖堂のニッコロ・フォルテグエッリ記念碑の制作を依頼されました。
アンドレア・デル・ヴェロッキオ《コッレオーニ騎馬像》1480-1496年
46歳のとき、ヴェネツィア政府から依頼された上の作品をヴェネツィアで制作中に、急病で倒れてしまいます。
そして53歳で亡くなりました。
まとめ
・ヴェロッキオは、芸術家としても教育者としても第一人者だったすごいアーティスト