こんにちは!
今回は、シャルダンについてです。
早速見ていきましょう!
ジャン・シメオン・シャルダン(1699-1779年)
ジャン・シメオン・シャルダン《眼鏡をかけた自画像》1771年
ジャン・シメオン・シャルダンは、フランスの画家です。
手に職
パリで生まれました。
父親は、ビリヤード台制作が得意な、王室御用達の家具職人でした。
19歳のとき、宮廷画家ピエール=ジャック・カーズに弟子入りし、時代遅れの修行をしました。
ジャン・シメオン・シャルダン《ビリヤードゲーム》1720年頃
25歳のとき、芸術家というより職人の集団だった、聖ルカ組合の親方として登録しました。
注目される
ジャン・シメオン・シャルダン《赤エイ》1728年
29歳のとき、ドーフィーヌ広場の展覧会に上の作品を出品し、称賛されました。
「動物と果実の画家」としてアカデミー正会員となり、鑑定家の注目する存在になりました。
単一モチーフの静物をテーマに描きました。
結婚
ジャン・シメオン・シャルダン《銅製の給水器》1733-1734年
32歳のとき、破産したブルジョワの娘マルグリット・サンタールと結婚しました。
上の給水器は、マルグリットの嫁入り道具でした。
当時、絵のテーマによって格差があり、シャルダンが描いていた「静物画」は安く、二流の扱いを受けていたため、静物画で一流でも、画家としては二流としてみられていました。
人物も描ける!
ジャン・シメオン・シャルダン《買い物帰りの女中》1739年
34歳頃、庶民の生活をテーマに描き、次第に上流階級がテーマになりました。
風俗画もあまり高値で売れず、36歳のとき、貧乏のうちにマルグリットが亡くなってしまいます。
上の絵の中央に描かれている箱は、たばこ入れで、妻の持ち物でした。
火がついてほのかに煙の出ているパイプは、「ヴァニタス」を示す伝統的なモチーフです。
この作品は、亡き妻へ捧げた作品でした。
また、手前にある蓋つきのカップは、日本の柿右衛門の碗にとても似ています。
当時のフランスでは、東洋の磁器がもてはやされ、シノワズリと呼ばれる流行を呼び、シャルダン自身も日本の磁器を所有していました。
ジャン・シメオン・シャルダン《若い女教師》1737年頃
ジャン・シメオン・シャルダン《コマを回す少年》1725-1738年
38歳のとき、サロンに初出品し、以降毎年出品しました。
絵を仕上げるのが遅くて有名だったシャルダンは、サロンの締め切りに間に合わなかったことも…。
王に献上した絵
ジャン・シメオン・シャルダン《食前の祈り》1740年
ジャン・シメオン・シャルダン《勤勉な母》1740年
41歳のとき、フランス王ルイ15世に謁見し、上の絵2枚を献上しました。
44歳のとき、アカデミーの理事に就任しました。
再婚
ジャン・シメオン・シャルダン《シャルダン夫人(マルグリット・プージェ)の肖像》1775年
45歳のとき、しっかりもので倹約家のマルグリット・プージェと再婚しました。
49歳のとき、サロン出品作で再び静物画を描くようになりました。
複数のモチーフを組み合わせた静物画でした。
53歳のとき、ルイ15世から王室年金を受けました。
息子の才能を疑う
54歳のとき、最初の妻の息子ピエールがアカデミーで1等賞を取り、ローマ留学することになりましたが、シャルダンは息子には絵の才能が無いと感じていました。
結局、ピエールはローマを離れ、悪い仲間に誘われ、ついには自殺してしまいます…。
56歳のとき、アカデミーの財務担当になりました。
58歳のとき、王の勅命により、ルーヴル宮内のアトリエに住みました。
ジャン・シメオン・シャルダン《切ったメロン》1763年
シャルダンの質感を表す技術は、誰にも真似できないものでした。
そのため、秘密の筆と秘密の絵具を使っているのでは?と言われていました。
不幸続きの晩年
72歳のとき、息子ピエールが溺死し、息子を失った悲しみと腎臓結石で絵を描くことも途絶えがちになります。
75歳のとき、アカデミー財務担当を解任されてしまいます。
ジャン・シメオン・シャルダン《自画像》1775年
76歳のとき、サロンにパステル画を出品しました。
80歳のとき、ルーヴル宮の自宅で亡くなりました。
まとめ
・シャルダンは、ロココの時代に庶民の日常を描いた画家