マレーヴィチを超解説!トラブルメーカーが描いた現代のイコンとは?

こんにちは!

今回は、マレーヴィチについてです。

早速見ていきましょう!

カジミール・マレーヴィチ(1879-1935年)

カジミール・マレーヴィチ《自画像》1933年

カジミール・マレーヴィチは、ロシアの画家です。

 

上の自画像の右下に、サイン代わりに小さな黒い正方形を描いています。

これはマレーヴィチのトレードマークでした。

行動力

ロシア、キエフ近郊の農村で生まれました。

両親はポーランド人でした。

17歳のとき、キエフの美術学校に通いました。

23歳のとき、カジミーラ・イワノワ・ズグレイツと結婚しましたが、長続きせず解消しました…。

カジミール・マレーヴィチ《膝の上で新聞を持っている女性》1904年

26歳のとき、モスクワに移りました。

この頃、帝政ロシア末期の混乱状態だったこともあり、ロシア土着の文化への関心が高まっていました。

マレーヴィチも左翼運動で捕まっています。

印象派に触れる

カジミール・マレーヴィチ《風景》1906年

27歳のとき、画家レールベルクの工房で働きました。

ここで印象派の作品に触れました。

カジミール・マレーヴィチ《休息(シルクハットを被った人々)》1908年

上の絵は、マネのパロディです。

カジミール・マレーヴィチ《キリストの経帷子》1908年

上の絵は、仏さまみたいに横たわるイエスが描かれていることから、マレーヴィチがアジア文化に影響を受けていたことがわかります。

「ロシア・プリミティヴィスム」のリーダーのゴンチャロヴァ、ラリオーノフ夫妻と親しくなります。

32歳のとき、ソフィア・ミハイローフナ・ラハローヴィチと結婚しました。

35歳のとき、詩人アレクセイ・クルチョーヌイフのオペラ「太陽の征服」の衣装と舞台デザインを担当しました。

カジミール・マレーヴィチ《モナリザとのコンポジション(部分日食)》1914年

0.10展

「0.10未来派絵画展」1915年

37歳のとき、「0.10未来派絵画展」を開催しました。

ロシア家庭ではイコンが架けられるような神聖な位置に、黒い幾何形態の作品を展示しました。

つまり、自分の作品は神様に等しいと言っているようなもので、これには他の出品者からも「ふざけている!」と揉めて殴り合いの喧嘩になったり、批評からも不評でした。

カジミール・マレーヴィチ《黒の正方形》1915年

上の作品は、絵の終わりであり、はじまりを意味する現在のイコンとして描いた絵でした。

カジミール・マレーヴィチ《シュプレマティスムコンポジション》1915年

「キュビスムからシュプレマティスムへ」を出版しました。

「シュプレマティスム(絶対主義)」は、ラテン語で「至高」を表す「シュプレムス」からとっています。(英語だと「supreme」有名ブランドの名前ですね)

雑誌「シュプレミュス」を創刊しました。

教師をしながら、広場やカフェ、切手などあらゆるものをデザインし、生計をたてていました。

10年間絵を描かなかった

カジミール・マレーヴィチ《白の上の白》1918年

40歳のとき、上の絵を制作しました。

41歳のとき、個展「印象主義からシュプレマティスムまで」を開催しました。

以降、10年間は絵を描かず、執筆、建築模型に力を注ぎました。

ベラルーシのヴィテブスクの美術学校の教師をしました。

このとき、シャガールもここで教師をしていました。

カジミール・マレーヴィチ《画家の妻の肖像画》1933年

47歳のとき、ナターリャ・アンドレーエヴナ・マルチェンコと結婚しました。

暗い影

49歳のとき、バウハウス叢書「無対象の世界」を出版しました。

この頃、スターリン政権が誕生し、芸術家への弾圧が始まりました。

ベルリンで「マレーヴィチ回顧展」が開かれ、ドイツを訪れました。

作品と論文の草稿を置いて、ドイツを去りました。

カジミール・マレーヴィチ《アスリート》1928-1932年

52歳のとき、ドイツ滞在中の交友関係などから反スターリンの疑い秘密警察に逮捕され、尋問を受けました。

秘密警察に見つからないように、書簡などは友人たちが焼却しました。

カジミール・マレーヴィチ《複雑な予感(黄色いシャツの半身像)》1932年

再び筆をとり、具象絵画に戻りました。

マレーヴィチの作品は公開が禁じられ、ソ連崩壊まで隠されました。

スターリンの大粛正の中、57歳で病死しました。

遺言により、棺、霊柩車、墓には黒い正方形が描かれました。

まとめ

マレーヴィチは、幾何学形態のみで絵を構成する「シュプレマティスム」を生み出した画家