印象派をアメリカに広めた画家メアリー・カサットの人生とは?

こんにちは!

今回は、現在の印象派の人気をつくった画家メアリー・カサットについてです。

早速見ていきましょう!

メアリー・カサット(1844-1926年)

メアリー・カサット《自画像》1878年

メアリー・カサットは、アメリカの画家です。

彼女がアメリカに印象派を広めてくれたからこそ、現在の人気があると言っても過言ではありません。

本当にすごい人なんです!

世界中を旅

ペンシルベニア州アレゲニーで生まれました。

父親はやり手の株式仲介人、母親の実家は銀行家という裕福な家庭でした。ブルジョワです。

カサット家の教育方針として、世界中を旅行しながら育ちました。

10歳になるまでに、ロンドン、パリ、ベルリンなど、ヨーロッパの都市を回りました。

そのときに、ドイツ語とフランス語を学び、デッサンを習いました。

画家になる!

デッサンお嬢様の習い事としてメジャーでした。

しかし、その域を超えて絵を描くことにハマったカサットは、両親の反対を押し切り、画家になることを決心します。

フィラデルフィアのペンシルベニア美術アカデミーで絵の勉強を始めましたが、退屈な授業と、男子生徒から馬鹿にされることにうんざりし、退学します。

芸術といえばパリ

22歳のとき、ちゃんとした巨匠の下で勉強しようとパリへ行きます。

当時、女性が1人で出かけることも、知人の紹介なしに男性に話しかけることもタブー視されていた時代です。

なので彼女もひとりでパリに行ったわけではなく、母親と、家族の友人が付き添いとして共に行動していました。

当時、女性はまだエコール・デ・ボザールに入学することができなかったため、画家のジェロームに師事しました。

毎日ルーヴル美術館に通い、模写しました。

女性は男性のように気軽に街のカフェに行くことができないので、美術館が女性の社交場でした。(男性の印象派の画家たちは、よくカフェに集まって討論していました)

アメリカ人女性で初のサロン入選

メアリー・カサット《マンドリン演奏者》1868年

24歳のとき、上の絵をサロンに出品し、入選します。

アメリカ人女性として初のサロン入選でした。

戦争でアメリカへ帰国

26歳のとき、普仏戦争が始まり、アメリカに帰国します。

実家は小さな町にあったので、画材やモデルを得ることが困難でした。

さらに、父親は彼女が画家になることになおも反対していたので、生活に必要な最低限のお金しか渡しませんでした。

再びヨーロッパへ

メアリー・カサット《バルコニーにて》1873年

27歳のとき、ピッツバーグの大主教がカサットの絵に興味を持ち、ヨーロッパ中を旅した後でいいから、イタリアの絵画を模写して欲しいという依頼を受け、再びヨーロッパに行きました。

ヨーロッパの主だった美術館をめぐり、独学で絵を勉強しました。

上の絵なんかは、スペインの巨匠ゴヤの《バルコニーのマハたち》っぽさがあります。

その絵についてはこちらから見れます↓

その後パリへ行き、ピサロの下で絵を学びました。

サロンへの失望

31歳のとき、サロンに出品した2作品のうち、1作品が落選します。

翌年、背景を暗くして再度提出するとなんと入選…。

サロンの審査のいい加減さにうんざりします。

偶然見たドガの絵

31歳のとき、画廊の店のウインドーで1枚の絵を見かけます。

それはドガのパステル画でした。

その絵を見て、サロンに反抗しているのは自分だけではないことを知りました。

印象派展

Logeで

メアリー・カサット《桟敷席にて》1878年

30歳のとき、ドガと対面します。

ドガとは仲が良かったようですが、カサットが亡くなる前にドガからの手紙を全て燃やしているので、詳しくはわかっていません。

ドガはカサットに、印象派の展覧会に出品してみないかと誘います。

青い肘掛け椅子の少女

メアリー・カサット《青い肘掛け椅子に座る少女》1878年

そして35歳のとき、第4回印象派展に出品しました。

上の作品はそのときに出品した作品です。

モデルの少女はドガの知り合いの娘、ドガからプレゼントされた子犬が描かれています。

お茶

メアリー・カサット《お茶》1880年頃

42歳まで、カサットは印象派の積極的なメンバーでした。

印象派から離れた後も、ドガやベルト・モリゾとはずっと友人のままでした。

看病

印象派から離れた理由も、意見が合わなくて…というわけではなく、母と姉妹を看病するためでした。

看病中は絵を描くことはありませんでした。

1880年代中頃には、カサットは再び絵を描き始めました。

浮世絵に衝撃を受ける

メアリー・カサット《試着》1890-1891年

46歳のとき、ベルト・モリゾと一緒に日本展へ行きます。

そこで見た喜多川歌麿や歌川豊国の絵に衝撃を受けます。

印象派から、浮世絵に影響されたような、よりシンプルでわかりやすい絵を描くようになりました。

47歳のとき、ドライポイントやアクアチンとで描かれた、高度なオリジナル・カラーの連作版画を発表しました。

ボートパーティ

メアリー・カサット《舟遊び》1893-1894年

美術コレクターのアドバイザーに

バレエのリハーサル

エドガー・ドガ《バレエのリハーサル》1876年頃

32歳のとき、16歳のルイジーヌ・エルダーはパリの画廊でドガの《バレエのリハーサル》をとても気に入り、同行していたカサットの勧めもあって購入します。

そして彼女は、アメリカ人として初めて印象派の絵を購入した人物となります。

カサットが39歳のとき、エルダーは砂糖王ハヴメイヤーと結婚し、その後もカサットにアドバイスをもらいながら、印象派の絵画を買い集め、アメリカ最大の美術コレクションを築くことになります。

現在そのコレクションは、メトロポリタン美術館に寄贈されています。

アメリカの若い芸術家たちは、カサットを鑑とし、こぞってアドバイスを求めました。

さらにカサットは、購入した作品をアメリカの美術館に寄付することを条件に、数人の美術コレクターのアドバイザーも務めていました。

どうしてみんなカサットに助言を求めたのかというと、「あのカサット家が推薦するものなんだから、(どれだけ奇妙に見えても)すごい作品なんだな」って思ったからです。

カサットの家はブルジョワでアメリカの社交界で顔がきき、カサット自身が画家だったことが功を奏したのでしょう。

これって本当にすごいことで、当時、フランスでは印象派の絵というのはあまりにも前衛的すぎて人気どころか酷評されていました。

そんな印象派の絵を、アメリカの富裕層に納得させて購入させちゃうカサットやり手すぎる…。

60歳のとき、レジオンドヌール勲章を受章します。

62歳のとき、ペンシルバニア鉄道の社長だった兄アレクサンダーが亡くなり、68歳まで絵を描くことを再びやめてしまいます。

66歳のとき、エジプトへ旅行し、古代の絵の美しさに感動します。

67歳のとき、糖尿病、リウマチ、神経痛、白内障と診断されます。

70歳のとき、目がほとんど見えなくなってしまったため、絵を描くことをやめます。

その代わりに、女性参政権の理想に向けて活動し、71歳のときには、その運動を支援する展覧会に作品を18点出品しました。

73歳のとき、ドガが亡くなります。

ドガはかなり気難しい性格で、晩年はほとんどの友人が彼から離れていきましたが、カサットは、適度に距離を置きつつも、連絡を取り続けていました。

82歳で亡くなります。

まとめ

カサットは、印象派をアメリカに広げた画家