こんにちは!
今回は、抽象絵画の創始者カンディンスキーについてです。
早速見ていきましょう!
ワシリー・カンディンスキー(1866-1944年)
1913年以前の写真
ワシリー・カンディンスキーは、ロシア出身の画家です。
裕福な家庭
モスクワの裕福な茶の商人の家庭に生まれました。
父親はモンゴル国境の町ネルチンスク出身で、ひいおばあちゃんは王族でした。
両親が離婚したため、伯母に育てられ、素描、ピアノ、チェロ、ドイツ語、童話を教わりました。
幼い頃から絵が上手でした。
法律と経済の道へ
20歳のとき、モスクワ大学で法律と経済を学びました。
卒業後は、国家試験に合格し、教授資格試験にも合格し、27歳でモスクワ大学法学部の講師になりました。
モネの絵に感動
エリートコース一直線なカンディンスキーでしたが、大学在学中から美術への欲求が高まりました。
エルミタージュ美術館では明暗に、パリ万博のエッフェル塔では科学技術の凄さに、そして決定打となったのは、30歳のときにフランス美術展で見たモネの《積みわら》でした。
この絵を見て画家になることを決意し、ミュンヘンアカデミーに入学し、絵画の勉強を始めました。
パウル・クレーに出会いました。
皆を統率
35歳のとき、前衛芸術家グループ「ファーランクス」を結成しました。
画家のガブリエーレ・ミュンターが愛人となり、2人はヨーロッパ中を旅しました。
ワシリー・カンディンスキー《馬上の二人》1906-1907年
42歳のとき、「ミュンヘン新芸術家協会」を結成し、若手をまとめました。
横倒しにした絵から…
風景の抽象化を試みていたある日、アトリエに戻ると、何が描いてあるのかわからないけれども、美しい絵がありました。
それは横倒しに置いていた自分の絵でした。
ワシリー・カンディンスキー《滝》1909年
ここからカンディンスキーの絵は抽象化が進んでいきます。
抽象作品を「新芸術家協会展」に出品しようとしますが、新芸術家協会の副会長にもかかわらず、拒否されてしまいます。
青騎士
ワシリー・カンディンスキー《青騎士》1903年
そこで、45歳のとき、マルクと「青騎士」を結成しました。
「青騎士」の意味は特になく、マルクの馬好き、カンディンスキーの騎士好きからそう命名したんだとか。
「青騎士展」にはルソーなどフランスの画家も出品し、話題になりました。
国外退去命令
ワシリー・カンディンスキー《色の研究-同心円のある正方形》1913年
48歳のとき、第一次世界大戦が勃発し、「24時間以内にドイツ国外へ去るように」と急に国外退去を命じられ、ガブリエーレと別れモスクワへ向かいました。
不自由
モスクワでは、教育委員会など美術行政の公務で多忙を極めました。
51歳のとき、ロシア革命が起こり、それ以降実家からの仕送りは途絶えてしまいました。
ニーナ・アンドレイフスカヤと結婚しました。
衣料や食料もなかなか手に入らず、靴を買うために書類を申請するも、たらい回しにされて結局買えずに終わるような生活が続きました。
そんななかでも、芸術科学アカデミーの設立や、多くの地方美術館を立ち上げました。
55歳のとき、ソ連を出てミュンヘンの画廊にある150点の作品を売って生活費にあてようとしますが、ドイツマルクが下落しており、値がつきませんでした…。
バウハウスの教官に
ワシリー・カンディンスキー《円の中の円》1923年
56歳のとき、ドイツ、ワイマールで、クレーの紹介により、バウハウスという美術学校の教官になりました。
ワシリー・カンディンスキー《黄・赤・青》1925年
60歳のとき、「点と線から面へ」という本を書きました。
ワシリー・カンディンスキー《いくつかの円》1926年
67歳のとき、ナチスがカンディンスキーのバウハウス解雇を要求してきました。
解雇しなければ、バウハウスを解体すると言われましたが、教授会は全員一致でナチスの要求を拒み、バウハウスは解体されました。
ワシリー・カンディンスキー《継承》1935年
ワシリー・カンディンスキー《リトルアクセント》1940年
カンディンスキーはパリへ亡命し、モンドリアンやダリ、ミロたちと親しく付き合いました。
デュシャンは、カンディンスキーに永住許可を取る裏技を教えてくれたんだとか。
ワシリー・カンディンスキー《空の青》1940年
セーヌ川の見えるアパートで制作を続け、78歳のとき、動脈硬化で亡くなりました。
まとめ
・カンディンスキーは、抽象画の創始者で、理論家、教育者としても有能でエリートな画家