こんにちは!
今回は、印象派と浮世絵の関係についてです。
早速見ていきましょう!
印象派と浮世絵
エドゥアール・マネ《エミール・ゾラの肖像》1868年
印象派の画家たちに、浮世絵の鮮やかで粋な色彩と、遠近法を無視した平坦な描写法、そして意表を突く構図の面白さが、驚きをもって受けとめられていました。
西洋絵画は何世紀にもわたって苦心に苦心を重ね、工夫に工夫を凝らして、2次元の画布に3次元を現出させようとしてきましたが、はなからそれを問題にしない浮世絵の軽やかさ、自由さは、古典の縛りから抜け出そうとする印象派に、大きなインスピレーションを与えました。
浮世絵の画面の切り方の奇抜さもまた、写真同様、これまで見たことのない視覚を提示しました。
ベルト・モリゾ《姉妹》1869年
「ジャポニスム(日本趣味)」が19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパ中を席接したのは、長く殻にこもっていた日本が開国し、パリ万博に浮世絵や工芸品などを出品したのがきっかけでした。
画商が日本にまで買い付けに来るようにもなりました。
エキゾチックで物珍しかったということ以上に、日本文化がそれだけ力を持っていたからに他なりません。
モーリス・ギベール 日本人として装うアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの写真 1890年頃
和服を着たロートレックの写真も残っています。
クロード・モネ《ラ・ジャポネーズ》1876年
モネは歌舞伎の衣装を購入して妻のカミーユに着せ、上の絵を描きました。
どうして印象派絵画はブランドになったのに、ジャポニスムは短期で終わってしまい浮世絵人気は広がらなかったのかというと、大きな理由は、描かれているものが欧米人にとって文化的に遠すぎて、親しみにくかったせいです。
そのうえ日本画は油絵と違い、紙に描かれているため耐久性がはなはだ落ちます。
そのため飾るにしても資産としても向いていませんでした。
また1点ものでない版画は、当然ながら価値が薄まります。
そもそも浮世絵は、行灯の仄暗い、ゆらめく明かりのもとで広げての鑑賞が想定されており、今とはずいぶん異なった見え方をしていたはずです。
そして、悲しいことに日本人自身、自分たちの持つ宝に気づいていませんでした。
フィンセント・ファン・ゴッホ《タンギー爺さん》1887年
ゴッホは日本人を、「自然の中に生きる」「真の宗教家」と誤解して憧れていました。
当時、浮世絵を芸術とは考えておらず(現在の漫画に対する評価と似ていたとか)、20万点も海外流出していくのを止めませんでした。
印象派のたいていの作品より、よほど日本画のほうが優れていると感じる人が増えてきても、印象派の画家や擁護者たちのように、理詰めで外へ向かって発信することをしませんでした。
国民性なのか、黙って差し出せば、相手がわかってくれると信じている、ないしは自己宣伝はみっともないと考え、鑑賞法を語りません。
フランスのやり方と正反対です。
実のところフランスは、美術も音楽も長らくイタリアに遅れをとっていました。
フランス・ アカデミーが優れた新進芸術家に与えた「ローマ賞」という名称、そしてイタリア留学という褒賞が、全てを物語っています。
フランスは必死にイタリアを追い、己の弱点を補うべく理論武装して、自らの芸術がいかに優れているかを現在も世界へ訴え続けています。(日本も見習うべき…)
ジョルジュ・スーラ《オック岬》1885年
上の作品は、安藤広重《東海道五十三次 箱根・湖水図》にインスパイアされた絵です。
安藤広重《東海道五十三次 箱根・湖水図》
迫力は圧倒的に広重の勝ちですね。