こんにちは!
今回は、教養ある知識人にして超イケメン、心身ともに健康で家族も大事にし、絵も上手いし売れる、7カ国語(ドイツ語、フランス語、イタリア語をはじめ、当時の教養語ラテン語も含む)を話し、外交官としても活躍した超すごい画家ルーベンスについてです!
早速見ていきましょう!
目次
ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640年)
ピーテル・パウル・ルーベンス《自画像》1623年
ピーテル・パウル・ルーベンスは、バロック期のフランドルの画家です。
ドイツのジーゲンで生まれました。
幼くして父親を亡くす
《若い学者の肖像》1597年
10歳のとき、法律家だった父親が亡くなり、母親の実家アントウェルペンに引っ越します。
生活に困窮した母親は、13歳のルーベンスを、ラレング伯爵未亡人のところに奉公に出しまが、数ヶ月で辞めてしまいます。
この時、上流階級の作法を身に付けました。
その後、アントウェルペンの二流画家トビアス・フェルハーヒトの元で修行します。
次に、アダム・フォン・ノートル、そして、18歳でアントウェルペンの人気画家オットー・ファン・フェーンに弟子入りします。
21歳のとき、一人前の証として、アントウェルペンの画家組合に親方として登録されます。
修行の旅
22歳のとき、巨匠の作品を見て学ぶため、各地を転々としました。
まず、ティツィアーノの絵を研究するためイタリアへ行き、着いてすぐマントヴァ公ゴンザーガの宮廷画家になりました。
フィレンツェでは、マリー・ド・メディチの結婚式に参列しました。
24歳のとき、ローマへ行き、教会の祭壇画を初めて制作しました。
26歳のとき、マントヴァ公の使者として、スペインのフェリペ3世を訪問しました。
ルーベンスの外交官としての能力は、このへんから認められ始めました。
同時にマントヴァ公のための絵画買い付けも行ううちに、自らも優れた美術コレクターになりました。
《ブリジーダ・スピノラ=ドリア侯爵夫人》1606年
29歳のとき、マントヴァへ戻り、初期の傑作肖像画である上の絵を描きました。
30歳のとき、再びローマに滞在し、精力的に仕事を請け負っていました。
母親の死
《羊飼いの礼拝》1608年頃
31歳のとき、母親の危篤の知らせでアントウェルペンへ戻ることにしますが、戻る前に亡くなってしまいます。
32歳のとき、スペイン領ネーデルラント総督アルブレヒト大公、公妃イザベラの宮廷画家になります。
ただしルーベンスは、ブリュッセルの宮廷には住まず、アントワープに工房を開きました。
家族を大切にした
《ルーベンスとイザベラ・ブラント》1609-1610年
32歳のとき、有力者の娘イザベラと結婚します。
上の絵は、結婚直後に描いた記念の1枚です。
2人の後ろにはスイカズラというつる植物が描かれています。
甘い香りを持ち、つるが絡み合うことから、終わりなきよろこび、変わらない心、愛の絆、恋人を象徴する植物でもあります。
余談ですが、ディズニーシーにも、ミッキー&ミニーでこの絵のパロディが飾ってあります。
仕事で多忙なルーベンスでしたが、家族をとても大事にしました。
自宅が美術館
《鏡を見るヴィーナス》1614-1615年
33歳のとき、ルーベンス自身がデザインし設計したイタリア風邸宅(住居兼アトリエ)に移り住みます。
この大邸宅には、イタリアの美術品を展示しており、外国からわざわざ見に来る人がいたそう。
ここは現在「ルーベンスの家」という博物館として残っています。
『フランダースの犬』の絵
ピーテル・パウル・ルーベンス 三連祭壇画《キリスト昇架》1610~1611年
33歳のとき、アントウェルペン大聖堂からの依頼で《キリスト昇架》《キリスト後架》を制作します。
『フランダースの犬』でネロが見たかった絵として有名ですね。
詳細はこちら↓
100人の弟子
ルーベンスは100人もの弟子を抱える大きな工房を持っていました。
優れた金銭感覚と経営の才能があり、契約の遵守、迅速な仕事ぶりから、工房で二千点を超える絵画を制作し、さらにそれらを銅版画にした数も膨大で、かなり繁盛していました。
そのため、大勢の弟子や助手を抱えていましたが、彼らに充分な給料を払い、揉めたことは一度もありませんでした。
弟子の中で、後年もっとも有名になったのは、41歳のとき弟子にした、ヴァン・ダイクでした。
無能な王太后を神のように描く(天才)
《マルセイユ上陸》1622-1625年
44歳のとき、フランス王太后マリー・ド・メディシスから、パリに建設中のリュクサンブール宮の装飾用に、自身の生涯を連作で描くよう依頼されます。
そして完成したのが24点の連作《マリー・ド・メディシスの生涯》です。
これだけ聞くと、マリー・ド・メディシスっていう人は、とても偉大なすごい人なんだろうな〜って思ってしまいまずが、違うんです。
王妃は、凡庸で美しくもないどころか、何の功績もなく、とにかく絵にする題材がありませんでした。
ではルーベンスはどうしたかというと、神話を混ぜて、とにかく話を100000倍盛ります。天才です。
妻と子を亡くす
《クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像》1616年頃
46歳のとき、娘クララが12歳で亡くなり、3年後には、17年間連れ添った妻イザベラも亡くなりました。
この年、スペイン王フェリペ4世の外交使節として、イギリスの宮殿へ行きます。
ベラスケスと仲良くなる
47歳のとき、イザベラ大公妃の命を受け、イギリスとスペインの平和交渉に貢献します。
7年間、外交官として、マドリッド、パリ、ロンドン、ロッテルダム、デルフト、アムステルダム、ユトレヒト、ハーグと飛び回り、敵国の密使とも接触するなど、重要な役割を果たしました。
このとき、敵からも味方からも絵の注文が入り、制作しました。
スペイン滞在時には、宮廷画家のベラスケスと親交を深めます。
ベラスケスとは、2人でイタリアへ旅行する計画を立てていましたが、ルーベンスの予定が合わず、ベラスケスは1人でイタリアを訪れています。
ベラスケスについての詳細はこちら↓
《エウロペの略奪》1628-1629年
成功しても努力を怠らず、ティツィアーノの作品を模写しています。
その中でも1番有名なのが上の絵です。
《戦争と平和の寓意》1629-1630年
53歳のとき、チャールズ1世に上の絵を献呈し、ナイトの爵位を授かりました。
その後、スペインのフェリペ4聖には《我が子を喰らうサトゥルヌス》を献上し、同じく爵位を授けられ、貴族の称号を手に入れ、ケンブリッジ大学からは学位も授与されました。
37歳下の16歳のエレーヌと再婚
《毛皮をまとったエレーヌ・フールマン》1636-1638年頃
その後、イザベラの姪16歳のエレーヌと再婚します。年の差は37歳です!
2人の間には5人の子供が生まれましたが、未子はなんとルーベンスの没後に生まれています。
この再婚に関して、友人宛の手紙が残っており、そこには、「周囲の人々から貴婦人と結婚するように勧められたが、中流階級の若い娘を選びました。私が恐れたのは貴族階級の、とりわけ女性に先天的なアクテクである高慢さであります。そういうわけで、私が絵筆を手にしているのを見ても、恥ずかしいなどとは思わない女性を選んだのです」と書いてありました。
生涯、ほとんど口も悪口も恨みも口にしたことのないルーベンスが、「絵筆を手にしているいる」のが「恥ずかしい」と書いていることから、これほど才能に恵まれ、爵位まで授けられたにもかかわらず、厳しい階級社会においては、不快な目にあったこともあったのだと推測することができます。
私的な風景画が絶筆
《無題》1635年頃
58歳のとき、アントウェルペン郊外の広大な敷地をもつステーン城を購入し、夏をそこで過ごすようになると、自らの楽しみのために風景画を描くようになりました。
ルーベンスの作品なら何でもいいからほしいという顧客が多かったため、それらの私的な風景画も、50点中36点と、多くが銅版画となりました。
亡くなる1年ほど前から持病の痛風が悪化し、両手が麻痺してきました。
上の風景画が、ルーベンスの絶筆だと考えられています。
ルーベンスは無節操に散財するとはなかったため、63歳で亡くなるまで幸せに暮らし、遺産も莫大に残しました。
画家でも外交官でも経営者でも大成功し、作品の評価も売買値も人気も、生前から現代に至るまで全く変わることはありませんでした。
まとめ
・ルーベンスは、バロックの画家で、当時最も成功した画家 ・画家にしては異例の幸せな一生だった