こんにちは!
今回は、ポール・デルヴォーについてです。
早速見ていきましょう!
目次
ポール・デルヴォー(1897-1994年)
ポール・デルヴォー《月の満ち欠け Ⅲ》1942年
ポール・デルヴォーは、ベルギーの画家です。
上の作品の、右側の通行人がデルヴォーの自画像だとも、眼鏡の鉱物学者に自身を投影しているともいわれています。
母からの溺愛と束縛
ベルギーのリエージュ州アンティの裕福な家庭に生まれました。
父親は弁護士、母親は音楽家、7歳下の弟はとても優秀で、後に弁護士になっています。
母親はデルヴォーを溺愛するがあまり、「女は危険!悪魔!」と教え込む過保護さや、過度な抑圧が、後の作品にも影響を与えています。
デルヴォーは小さい頃から内気で夢想家でした。
絵画よりも音楽
7歳のとき、小学校に入学します。
学校の博物教室で音楽の授業が行われていたため、そこにあった人体標本や人や猿の骨格標本に惹きつけられました。
ポール・デルヴォー《月の満ち欠け》1939年
10歳のとき、ジュール・ヴェルヌの小説『地底旅行』を読みました。
この物語に登場する鉱物学者のオットー・リーデンブロックに自身を投影し、作品中に彼が何度も登場しています。
変に石が転がっているのも鉱物学者だからですね。
ポール・デルヴォー《月の満ち欠け Ⅱ》1941年
ポール・デルヴォー《議会》1941年
ポール・デルヴォー《夜の通り》1947年
ポール・デルヴォー《研究者の学校》1958年
ポール・デルヴォー《ジュール・ヴェルヌへのオマージュ》1971年
13歳のとき、高等学校に入学します。
絵画よりも音楽を学び、ギリシャ語、ラテン語を身につけました。
ホメロスの『オデュッセイア』が大のお気に入りでした。
初期の素描では、ホメロスの神話の場面をよく描いています。
15歳のとき、鉄道模型を自作するほど汽車が好きで、飛行機にも夢中になりました。
16歳のとき、ブリュッセルのモネ劇場でリヒャルト・ワグナーのオペラ『パルシファル』を観ました。
絵も好きでしたが、音楽も大好きで、母からはグランドピアノをプレゼントしてもらっています。
画家の道へ
19歳のとき、ブリュッセルの美術学校アカデミー・ロワイヤル・デ・ボザールに通いました。
両親の意向と元々建築が好きだったこともあり、建築科に進みましたが、学年末試験で数学を落第してしまいます。
22歳の夏、ゼーブリュージュに家族で滞在し、そこで当時著名な画家だったフランツ・クルテンスと出会い、画家になるように勧められました。
彼が言うならと、両親も絵画の勉強をすることを認め、ブリュッセルの美術アカデミーで、象徴主義の画家のコンスタント・モンタルドに師事し、ロベール・ジロンと親友になりました。
23歳のとき、兵役につき、夜は、象徴主義の画家のジャン・デルヴィの絵画教室に通いました。
定期的に展覧会を開催
ポール・デルヴォー《オーデルゲム》1923年
26歳のとき、両親の自宅の一室を改装し、アトリエにします。
ポール・デルヴォー《家族の肖像》1920年頃
28歳のとき、ブリュッセルのブレクポット画廊、ロワイヤル画廊でロベール・ジロンとの二人展を開催しました。
ある弁護士が購入した上の作品以外は後に画家の手によって処分されました。
以降、ほぼ年1回のペースで展覧会を開催しました。
29歳のとき、アンソールに影響を受けました。
30歳のとき、パリで初めてデ・キリコの作品を見て、圧倒されます。
ポール・デルヴォー《森の中にいる子供とカップル》1928-1929年
31歳のとき、ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展を開催しました。
運命の女性との出会い
32歳のとき、アントンウェルペン出身のアンヌ=マリー・ド・マルトラール、愛称「タム」と出会います。
2人は会った瞬間から強く惹かれ合い、彼女との結婚を望みましたが、両親から強く反対され、別れることに…。
32歳なのに?と思うかもしれませんが、デルヴォーはマザコンだったので…。
その反動からか彼は、ものすごい数のタムの絵を描きました。
33、34歳のとき、ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展を開きました。
見世物小屋
ポール・デルヴォー《スピッツナー博物館》1943年
35歳のとき、ブリュッセルのミディ駅の横で毎年開催していた移動遊園地の中にあったスピッツナー博物館の医療博物館という見世物小屋を見に行きました。
赤いベルベットのカーテン内にあるウインドウに陳列された臓器標本や骸骨の模型、機械仕掛けの動くヴィーナス像などに強い影響を受け、作品にもこれらのモチーフが登場しています。
母の死とシュルレアリスム
36歳のとき、脳内出血により母親が急死します。
ブリュッセルで個展を開きました。
37歳のとき、ブリュッセルで開かれた『ミノトール展』に参加し、シュルレアリスム絵画にさらに影響を受けました。
しかし、当時政治色の強かったシュルレアリスムグループとは、積極的な関わりを持ちませんでした。
ポール・デルヴォー《火災》1935年
38歳のとき、ブリュッセルのマグリットの自宅を訪ね、他のシュルレアリストたちを紹介してもらいます。
デ・キリコの形而上絵画やマグリットのデペイズマンなどの絵画表現を自分でも利用するようになりました。
39歳のとき、ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展を開きました。
40歳のとき、父親が亡くなりました。
結婚と成功
デルヴォーの芸術を理解してくれる知的な女性、シュザンヌ・ピュルナルと結婚しました。
彼女は、4年後にパレ・デ・ボザール館長となったロベール・ジロンの秘書になりました。
アントンウェルペン、ロンドン等の展覧会に出品しました。
ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展を開きました。
41歳のとき、パリやアムステルダムで開かれた「国際シュルレアリスム展」に出展しました。
ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで開催された「ベルギー現代美術」展に出品し、この時出品した12点全てをメザンスが購入しています。
またロンドンの画廊で個展を開催し、ローランド・ペンローズとペギー・グッゲンハイムが作品を購入しました。
この頃から一般的にシュルレアリスムの画家としてデルヴォーは知られていきました。
ポール・デルヴォー《ピグマリオン》1939年
43歳のとき、メキシコで開催された「国際シュルレアリスム展」に参加しました。
ポール・デルヴォー《自然史博物館》1943年
44歳のとき、ブリュッセルの自然史博物館に通って骸骨を素描しました。
ニューヨークでのシュルレアリストの展覧会に出品しました。
ポール・デルヴォー《人魚の村》1942年
45歳のとき、ニューヨークで開催された「シュルレアリスム国際展」に出品しました。
ポール・デルヴォー《エコー》1943年
ポール・デルヴォー《眠れるヴィーナス》1944年
47歳のとき、ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで大規模な回顧展が開かれました。
49歳のとき、ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で個展を開きました。
ポール・デルヴォー《偉大なるセイレーンたち》1947年
タムとの偶然の再会
ポール・デルヴォー《森》1948年
50歳のとき、サンティデスバルドに滞在中、煙草を買いに入った商店で、18年前に両親によって引き離されたタムと偶然再会しました。
まだお互いに相手のことが好きだった2人は、その後も定期的に会い、文通を続けました。
タムと再会したときに描いたのが上の作品です。
タムとの再会によって強迫観念となっていた女性に対する思いが緩和され、絵が明るくなり、ミステリアスな雰囲気や虚無感が薄れていきます。
《レダ》1948年
51歳のとき、ポール・エリュアールと共作した詩画集『詩・絵画・素描』がジュネーブとパリで刊行されました。
ヴィネツィア・ビエンナーレ、ロンドンの「現代絵画の40年 1907-1947」展、ブエノスアイレスの「ベルギー現代美術」展に出品しました。
52歳のとき、ニューヨーク、ブリュッセル、パリで相次いで個展が開催されました。
デルヴォーとタムは、ブリュッセルのボワフォールの友人宅に部屋を借り、密会しました。
53歳のとき、ブリュッセルの国立美術建築学校の絵画部門教授に任命されました。
パリでのクロード・スパークの2つの舞台作品の舞台装置を担当しました。
54歳のとき、この年に始まったサンパウロ・ビエンナーレにベルギーから出品しました。
アントウェルペンの「現代芸術サロン」展に58歳まで毎年出品しました。
骸骨をたくさん描くように
ポール・デルヴォー《はりつけ》1951-1952年
55歳のとき、キリストの受難のテーマを骸骨で描く作品を多数制作しました。
この頃は、裸婦をほとんど描かなくなる代わりに、骸骨を主役に描きました。
デルヴォーにとって骸骨は「自身の過去」を意味しており、骸骨を描くことで、両親や過去から決別しようとする意志があったそう。
骸骨の表現は、アンソールや、ボス、ブリューゲルからの影響を受けています。
オステンドにある保養所の娯楽室の壁画を制作しました。
クノックのカジノでマグリットと展覧会を開催しました。
タムとの結婚
ポール・デルヴォー《孤独》1956年
最初の妻シュザンヌと離婚し、10月にタムと正式に結婚しました。
この頃から、場面が古典建築から駅舎へと変わっていきました。
列車や路面電車も骸骨と同じく過去のデルヴォーの作品に登場していましたが、今までのように裸婦の背景などにではなく、単独で、背景自体が絵の中心になり始めました。
62歳のとき、ブリュッセルのコングレスパレスで壁画を制作しました。
68歳のとき、ブリュッセル王立美術アカデミーのディレクターに就任しました。
69歳のとき、痩せ型の学生モデル、ダニエル・カネールを描くようになったことで、それまでのタムの豊穣な女性像から雰囲気を一変させることになりました。
ポール・デルヴォー《ポンペイ》1970年
晩年になると、シュルレアリスム的な不調和を排除し、代わりに神秘的な雰囲気をたたえた絵を描くようになりました。
「私はたぶんこれまで不安を描いてきたのだと思う。今では美を描きたい。それも神秘的な美を」と語っています。
裸婦をはじめとする、過去のモチーフが大集合し、輝くような光が神秘的に降り注ぐようになります。
ポール・デルヴォー《リトリート》1937年
ポール・デルヴォー《トンネル》1978年
85歳のとき、ベルギーでポール・デルヴォー美術館が設立しました。
92歳のとき、すでに寝たきりだったタムが亡くなりました。
この日を境にデルヴォーは筆を置き、再び制作することはありませんでした。
96歳のとき、フェルヌの自宅にて亡くなりました。
まとめ
・デルヴォーは、タムという女性をノスタルジックにひたすら描いた画家