こんにちは!
今回は、ゴッホやロートレックに影響を与えた画家ドーミエについてです。
早速見ていきましょう!
オノレ・ドーミエ(1808-1879年)
オノレ・ドーミ《イーゼルの前の画家》1870年頃
オノレ・ドーミエは、フランスの画家です。
苦労人
フランス南部マルセイユの額縁屋兼ガラス屋に生まれました。
6歳のとき、父親が急に「詩人になる!」と言い出し、家族を置いてパリに行ってしまいます…。
8歳のとき、父親を追って、母親と一緒にパリに出ました。
12歳のときには、家計を助けるため、弁護士の使い走りや書店の店員のバイトをしていました。
画家を目指す
13歳のとき、父親の知り合いの画家に師事しましたが、彼の作風が時代遅れだと感じたドーミエは、昼はバイト、夜はルーヴル美術館で巨匠の絵を模写し、勉強しました。
17歳のとき、稼ぎのいいバイトとして、出版業のベリアールの元で、当時発明されたばかりの最新技術だった石版画(リトグラフ)の技法を学び、覚えました。
風刺画
21歳のとき、風刺新聞「シルエット」で、初の風刺画を発表しました。
当時のフランスは、まだ識字率が低く、挿絵入りの新聞の需要は大きかったそう。
22歳のとき、7月革命の後、出版の自由が許され、新聞・雑誌などが多数刊行されました。
23歳のとき、出版業シャルル・フィリボンの元で働きました。
オノレ・ドーミ《ガルガンチュア》1831年
風刺新聞「カリカチュール」に上の絵を掲載しました。
この絵は、7月革命で支配者となった庶民の敵、国王ルイ・フィリップを大食いのデブとして描き、税金を吸い込んでお尻から勲章を出しているという風刺画で、これが世間で大ウケします。
ドーミエは、弱い者の味方というよりも、権力者が嫌いだったのでこのような絵を描いていました。
しかし翌年、この絵が王政批判だとして問題になり、裁判にかけられ6か月の禁固刑と罰金を科せられます。
文豪バルザックは「彼にはミケランジェロの血が流れている!」と称賛し、のちに出会う詩人ボードレールもドーミエのことを高く評価していました。
粘土をこねて人形を作る
オノレ・ドーミ《フランソワ=ピエール=ギョーム・ギゾー 内務大臣(あるいは厄介なやつ)》1833年
絵のモデルとして、粘土人形を多数制作しました。
オノレ・ドーミ《イポポリット・アブラハム・デュボワ 司法官で代議士(あるいは脂ぎって…満足したデブ)》1833年
悪そうな顔してますね…。
政治風刺がしにくい時代に
オノレ・ドーミ《トランスノナン階、1834年4月15日》1834年
26歳のとき、フィリポン主宰の「月刊石版画協会」のために制作した上の絵が反響を呼びました。
これは、無抵抗の住民が軍隊に虐殺された事件を描いた作品でした。
27歳のとき、出版検閲法が制定され、政治風刺は御法度となり、「カリカチュール」が廃刊になりました。
そのためドーミエは、政治風刺から日常をテーマにした風俗風刺へ転向しました。
38歳のとき、お針子のマリー・アレクサンドリーヌ・ダッシーと結婚し、セーヌ川に浮かぶサン・ルイ島に新居を構えました。
40歳のとき、パリの一流芸術家たちの集まりに出席して詩人ボードレール、ドラクロワ、ドービニーと出会い、ミレー、コロー、クールベなど写実主義の画家たちと親しくなりました。
公式デビューの油彩画
オノレ・ドーミ《共和国》1848年
2月革命が起こり、ルイ・フィリップを追放した第二共和制になってから初めてのコンクールに上の作品を提出し、最終選考に残りました。
これが初めて公式の場に出されたドーミエの油彩画でした。
これを機に再び政治風刺画を描き始めました。
43歳のとき、クーデターが起こり、翌年ナポレオン3世が皇帝に即位しました。
これによって、前より検閲が厳しくなり、また風俗風刺画に戻ります…。
ナポレオン主催のサロンには出品しませんでした。
45歳頃から、夏の間、バルビゾンなどを訪れて、コロー、ドービニー、ミレー、ルソーらと戸外で一緒に油彩画を描きました。
52歳のとき、風刺画への制作意欲が衰えマンネリ化し、出版社をクビになりました。
油彩画に力を入れ始める
オノレ・ドーミ《3等列車》1862-1864年頃
油彩画とデッサンに専念するようになりました。
オノレ・ドーミ《洗濯女》1863年頃
ドーミエは生涯に300点以上の油彩を描きましたが、生前にはほとんど公開されませんでした。
オノレ・ドーミ《クリスパンとスカパン》1864年頃
晩年
57歳のとき、ヴァルモンドワ村に家を借りて住みました。
オノレ・ドーミ《ドン・キホーテ》1868年頃
62歳のとき、レジオン・ドヌール勲章を辞退しました。
66歳のとき、家賃滞納で家を追い出されそうになっていたところ、コローが家ごと購入してくれました。男前すぎる…!
67歳頃から眼の病気を患い、失明します。
70歳のとき、デュラン・リュエル画廊で初の個展を開催しました。
ドーミエはその数ヶ月後に亡くなりました。
まとめ
・ドーミエは、風刺画を得意とし、庶民のありのままの姿を描いた画家