こんにちは!
今回は、女性とネコが大好きな画家クリムトについてです。
早速見ていきましょう!
目次
グスタフ・クリムト(1862-1918年)
グスタフ・クリムトは、オーストリアの画家です。
ウィーン郊外バウムガルテンに生まれました。
生涯結婚することはありませんでしたが、女性大好き、絵のモデルに手を出しまくりだったクリムトには、少なくとも14人の子供がいたんだとか…。
ちなみにネコも大好きで、10匹くらい飼っていたそう。
兄弟そろって芸術の才あり
父親は彫刻家で、クリムトは7人兄弟の2番目でした。
14歳のとき、オーストリア工芸博物館付属工芸学校に入学し、後に弟エルンストとゲオルグも入学しました。
弟たちはそれぞれ彫刻師、彫金師となり、クリムトの作品を飾る額の設計をおこなっています。
早くも会社を設立
19歳のとき、同級生のフランツ・マッチュと弟エルンストと3人で「芸術家カンパニー」を設立し、絵画や内装の請負を始めました。
24歳のとき、ブルグ劇場の壁画を制作し、後に金功労十字賞を授与されます。
皇帝お墨付き
《旧ブルク劇場の観客席》1888年
26歳のとき、ウィーン市からの依頼で上の作品を制作しました。
当時の皇帝フランツ・ヨーゼフがこの絵を大変気に入り、クリムトは第1回皇帝賞を受賞しました。
美術史美術館でも装飾の仕事を行いました。
29歳のとき、ウィーン美術界での名声を確立したクリムトは、ウィーン美術家組合に加入します。
30歳のとき、弟エルンストが亡くなり、会社は事実上崩壊。
同じ年に父親も亡くなっています。
運命の相手エミーリエ
《エミーリエ・フレーゲの肖像》1902年
その後エミーリエ・フレーゲと出会います。
目指す方向性の違いから、マッチュが共同アトリエを去ります。
大学にポルノは無理…
《哲学》1899-1907年 1945年に破壊
《医学》1899-1907年 1945年に破壊
《法学》1899-1907年 1945年に破壊
32歳のとき、ウィーン大学講堂の装飾画を依頼され、《哲学》《医学》《法学》の《学部の絵》3点を担当することになりました。
出来上がった作品は、あまりにセンセーショナルな絵で、教授たちに受け入れられず、さらに帝国議会で依頼主の文部大臣まで攻撃される事態に…。
あまりにもおおごとになってしまったため、クリムトは契約の破棄を求め、事前に受け取った報酬を返却しました。
美術館や個人に売却された3枚の絵は、後にナチスによって没収され、焼失し、白黒写真と《医学》の習作だけが現存しています。
新鋭のグループ
35歳のとき、保守的なウィーン美術家組合を脱退し、ウィーン分離派を結成し、初代会長を務めます。
この頃から、エミーリエと夏をアッター湖で一緒に過ごすようになります。
36歳のとき、第1回分離派展を開くと、予想以上の大人気となります。
ベートーヴェン・フリーズ
《ベートーヴェン・フリーズ》(部分)1901年
40歳のとき、第14回分離派展(ベートーヴェン展)に、《ベートーヴェン・フリーズ》を出品しましたが、不評。
43歳のとき、分離派内で対立が起こり、友人と脱退します。
お金持ちの邸宅を装飾
《ストックレー邸内部装飾の下絵「抱擁」》1910-1911年
ホフマン設計ストックレー邸の壁画装飾を制作します。
ダナエ
グスタフ・クリムト《ダナエ》1907年
ギリシャ神話に登場するダナエのちょっとすごい話を絵にしています。
どんな話なのかはこちら↓
クリムトといえば「接吻」
《接吻》1908-1909年
46歳のとき、「クンストシャウ」展が開催されます。
55歳のとき、ウィーン、ミュンヘンの美術アカデミーの名誉会長になります。
裸にしてから描いてた
《花嫁》1917-1918年 未完成
クリムトは女性を描くときに、まずモデルを裸にして裸体を描き、その後から衣服を描いていたことが、未完成のまま残されたこの作品からわかったそう。
人生の最後に求めたのは…
1月のある日、脳卒中で倒れ、半身不随に…。
その後インフルエンザで亡くなりました。
クリムト最期の言葉は「エミーリエを呼んでくれ」でした。
エミーリエは、クリムトの死後、クリムトとの手紙をほとんど処分し、生涯独身を貫きました。
まとめ
・クリムトは、装飾的で官能的な絵を描いた画家