こんにちは!
今回は、ゴッホと日本と浮世絵についてです。
早速見ていきましょう!
目次
ゴッホの日本への憧れ
浮世絵にハマる
32歳のとき、エドモン・ド・ゴンクールの小説『シェリ』を読んでそのジャポネズリー(日本趣味)に魅了され、多くの浮世絵を買い求めて部屋の壁に貼っていました。
ゴッホはパリに来る前、ベルギー時代には浮世絵の存在を知っていたようです。
パリでは、サミュエル・ビングの店で多くの日本版画を買い集めました。
ビングの店に大量の浮世絵があったと聞くと、当時パリで浮世絵人気が爆発していたのかと思ってしまいますが、この頃はまだ知る人ぞ知るという程度で、それほど人気はありませんでした。
なので、ゴッホが浮世絵を集めていた頃は、1枚3スーから5スー(150円~250円)という安値で売っていました。
だからこそゴッホは、ビングの店から委託で浮世絵を預かり、商売しようと考えていました。
浮世絵のコレクターだった
モーリス・ギベール 日本人として装うアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの写真 1890年頃
浮世絵への熱中には、友人の画家ベルナールやロートレックの影響も大きいといわれています。
実際に浮世絵をコレクションしていた印象派の画家も少なくなかったのでは?といわれていますが、こういったコレクションは、所有者の死後オークションなどで散逸してしまうことが多かったため、よくわかっていません。
珍しく、モネとゴッホは浮世絵コレクションとして残っていますが、それでもモネについては大部分が散逸してしまっています。
しかし、ゴッホの浮世絵コレクションは、彼の残された家族たちの努力によって大部分がそのまま残っています。
万年貧乏画家のゴッホが、苦しい生活を切り詰めながら集めた貴重なコレクションです。
ゴッホとテオの浮世絵コレクションとして、現在ゴッホ美術館には512点収蔵されていますが、失われた絵も多く、その数100点ともいわれています。
ゴッホは浮世絵を友人の画家と交換していました。
ベルナールは手紙で、自分の作品と引き換えに、かなりの枚数の浮世絵をゴッホから受け取ったと書いています。
また、ゴッホと弟のテオは、妹のヴィルなど他の人にも数多くの浮世絵を贈っていることがわかっています。
何を学んだのか?
浮世絵の単純ながら表現力豊かな線描や大胆な構図、鮮やかな色彩に強く魅了されたゴッホは、それらを模写していきました。
しかし単なる模写ではなく、元の絵にはない色遣いや、別の題材を組み合わせてアレンジして作品を作り上げていきました。
浮世絵コレクションの展覧会を開く
フィンセント・ファン・ゴッホ《カフェ・タンブランの女(アゴスティーナ・セガトーリ)》1887年
パリ滞在2年目、34歳のとき、ゴッホは自らの浮世絵コレクションの展覧会をカフェ・レストラン「ル・タンブラン」で開きました。
このカフェの女主人アゴスティーナ・セガトーリは当時、ゴッホの恋人でした。
ゴッホは、自分の浮世絵版画を背景に彼女の肖像画を描いています。
ビールの下にソーサーが2枚あることから、彼女が2杯目を飲んでいることがわかります。
版画に買い手がつくことを期待していましたが、現在のところ実際に売れたという記録は残っていません。
日本の茶箱の裏に描いた絵
フィンセント・ファン・ゴッホ《三冊の本》1887年
この絵の裏を見ると…
《三冊の本》裏面
なんとキャンバスが、「起立工商会社」と墨で書いてある木製の楕円形パネルだとわかります。
この会社は、日本の商品をヨーロッパ市場向けに輸出する日本の貿易会社で、浮世絵も取り扱っていました。
パリにいたときのゴッホの情報はほとんど残っていないため(弟テオと同居していたため手紙を書かなかった)、正確にはわかりませんが、この木の蓋からゴッホがこの会社でも浮世絵を購入していたと推測することができます。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ヒヤシンスの球根》1887年
もう1枚あります。
こちらも裏面は「起立工商会社」の墨書のある木製パネルです。
タンギー爺さん
フィンセント・ファン・ゴッホ《タンギー爺さん》1887年
パリでゴッホが絵具を買っていた店の店主、ジュリアン・フランソワ・タンギー(愛称タンギー爺さん)は、ゴッホのようなお金のない画家を支援するため、絵と交換で画材を提供していました。
日本を表す、桜、富士、芸者の絵を意図的に使い、背景の浮世絵で春夏秋冬を表現しています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《タンギー爺さん》1887年
雨の橋(広重を模して)
フィンセント・ファン・ゴッホ《雨の橋(広重を模して)》1887年
歌川広重《名所江戸百景・大はし あたけの夕立》1857年
梅の開花(広重を模して)
フィンセント・ファン・ゴッホ《梅の開花(広重を模して)》1887年
歌川広重《名所江戸百景・亀戸梅屋舗》1857年
フィンセント・ファン・ゴッホ《広重「亀戸梅屋舗」のトレース》1887年
花魁(渓斎英泉を模して)
フィンセント・ファン・ゴッホ《花魁(渓斎英泉を模して)》1887年
花魁
この女性が花魁だということは、帯が背中ではなく正面で結ばれていることからわかります。
渓斎英泉 《雲龍打掛の花魁》
英泉は美人画だけでなく春画でも知られ、文筆家としても活躍しました。
『パリ・イリュストレ』1886年
『パリ・イリュストレ』日本特集号は、画商・林忠正(原田マハさんの小説「たゆたえども沈まず」で知名度が抜群にアップした人物ですね)が大半を執筆し、パリで2万5000部が完売しました。
表紙の絵は、西欧では日本の書物と反対に左開きになることから、林があえて反転させています。
この雑誌には日本の紹介だけでなく、浮世絵も多数掲載されていました。
ゴッホの遺品からも表紙が擦り切れた状態でこの雑誌が発見されたことから、愛読していたことがわかります。
フィンセント・ファン・ゴッホ《『パリ・イリュストレ』の表紙トレース》1887年
ゴッホは表紙の絵を、トレース紙を使って拡大模写した後、カンヴァスに写しました。
鶴と船
フランス語で鶴は「娼婦」という意味もあります。
龍明鬙谷《芸者のいる風景》1870年代
フィンセント・ファン・ゴッホ《包帯をした自画像》1889年
耳切り事件の後に描いた自画像の後ろにもこの浮世絵が描かれています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《包帯をした自画像》1889年
こちらの絵に描かれている浮世絵も、雰囲気が似ています。
カエル
フランス語でカエルは欲望を発する「卑しい女」の代名詞です。
鶴とカエルで、花魁という職業を暗示しています。
歌川芳丸《新板虫尽》1883年
日本の修行僧に見立てた自画像
フィンセント・ファン・ゴッホ《自画像)1888年
ゴッホは、日本の芸術家たちが作品を交換し合っていると思っていました。
そこでゴッホは、ゴーギャンとベルナールに同じことを提案し、お互いの肖像画の制作を頼みました。
2人も自らの自画像を描き、ゴッホも、日本の修行僧のような釣り目で髪を短く刈り込んだ姿の自画像を制作して送りました。
ポール・ゴーギャン《ベルナールの肖像画と自画像》1888年
エミール・ベルナール《ゴーギャンの肖像画と自画像》1888年
一部分をクローズアップ
フィンセント・ファン・ゴッホ《花咲くアーモンドの木の枝》1890年
ゴッホは、ビングの編集による月刊紙『芸術の日本』の創刊号に掲載された下の作品からインスピレーションを受けて、見上げるような視点で枝をクローズアップして描いています。
文鳳《撫子の習作》『芸術の日本、美術・産業資料』1888年5月第1号より