こんにちは!
今回は、エヴァ・ゴンザレスについてです。
早速見ていきましょう!
エヴァ・ゴンザレス(1849-1883年)
エヴァ・ゴンザレス《自画像》1880年頃
エヴァ・ゴンザレスは、フランスの画家です。
スペインにルーツを持つモナコ人の作家を父親に持ち、音楽家の母親を持つ芸術エリートでした。
一家が上流階級と呼べるかはどうであれ、狭い芸術家の世界ではエリートと見なされ、幼い頃から文化的な雰囲気の中でチヤホヤされながら育ちました。
16歳から美術を学び始めました。
当時公立の美術学校は女性の入学を認めていなかったので、パリで女性のための絵画教室を開いていたシャルル・シャプランに学びました。
マネ唯一の弟子
エドゥアール・マネ《エヴァ・ゴンザレスの肖像》1869-1870年
20歳のとき、スタジオを開き、ベルギー出身の画家アルフレッド・ステヴァンスに紹介されてエドゥアール・マネと出会い、彼の唯一の弟子になりました。
この頃、マネは画家ベルト・モリゾと親密になり、彼女をモデルに絵を描いていました。
このとき、マネ37歳、モリゾ28歳、エヴァ20歳でした。
エドゥアール・マネ《エヴァ・ゴンザレスの肖像》1878年
エヴァは、モリゾとは違って活発で外交的な性格で、厳格な高級官僚の家庭に育ったマネは、すっかりエヴァに魅了されてしまっていました。
一方、高級官僚の厳格な上層プルジョワ階級の家庭で育ったため、内向的で控えめな性格だったモリゾは、エヴァに対して負い目を感じ嫉妬心を抱いていました。
もちろんその感情は、マネを介しての恋愛感情からではなく、同じ女性の画家としてのライバル心からでした。
マネはモリゾを描いたようにエヴァをモデルに肖像画を描きましたが、モリゾの場合と違ってエヴァの場合は画家として描きました。
一方、モリゾが画家として描かれたことはありませんでした。
モリゾはエヴァに比べ、マネから画家として評価されていないのではないかと思ってしまったそう。
そのうえ、マネはこともあろうに、モリゾに対してもエヴァをモデルに描くよう説教してモリゾを憤慨させてしまいます。
辛辣なところがあったモリゾが、手紙で愚痴ることができた相手は親友でもある姉エドマでした。
モリゾと一心同体のエドマも、エヴァに対して好意的ではありませんでした。
エヴァは忠実にマネの技法を真似しましたが、ベルトはマネの技法を吸収した上で、自分流に絵を描きました。
印象派展には不参加
エヴァ・ゴンザレス《一座の子供》1870年
21歳のとき、サロンに作品を出品するようになりました。
上の絵なんかは、↓のマネの絵にそっくりです。
エドゥアール・マネ《笛を吹く少年》1866年
エヴァの作品は、まさに弟子!といった感じです。
エヴァ・ゴンザレス《眠り》1877-1878年頃
上と下の作品は、ほぼ同じ大きさのカンバスに同様の構図で描いていることから、対になった作品だと考えられています。
エヴァ・ゴンザレス《朝の目覚め》1877-1878年
エヴァは師であるマネの意見を受け入れ、マネと同じく一度も印象派展に参加することはありませんでしたが、そのスタイルから印象派の一人に数えられています。
また、彼女は印象派の画家たちのためにモデルを務めることも多くありました。
エヴァ・ゴンザレス《乳母と子供》1877-1878年
エヴァ・ゴンザレス《ディエップの浜辺から西の崖に向かって》1871年
普仏戦争を避け、ディエップに移りました。
エヴァ・ゴンザレス《オペラのロッジ》1874年
30歳のとき、版画家アンリ・ゲラールと結婚し、夫と自分の妹ジャンヌをモデルに多くの作品を残しました。
上の絵のモデルも、夫と妹です。
エヴァ・ゴンザレス《婦人帽子職人》1877年
エヴァは第一子を出産する際に塞栓症により、34歳でその生涯を終えました。
それは、マネの死から6日後のことでした。
まとめ
・エヴァ・ゴンザレスは、マネ唯一の弟子で印象派の画家