こんにちは!
今回は、肖像画を「芸術」に高めた画家ヴァン・ダイクいついてです。
早速見ていきましょう!
目次
アンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641年)
アンソニー・ヴァン・ダイク《自画像》1621年頃
アンソニー・ヴァン・ダイクは、バロック期のフランドル出身の画家です。
フランドル地方アントワープの裕福な家庭に生まれます。
ベラスケスと同い年です。
神童
10歳のときには、画家ヘンドリック・ファン・バーレンのもとで絵画を学び、神童ぶりを発揮していました。
16歳のときには、画家として独り立ちし、友人のヤン・ブリューゲル(子)(ピーテル・ブリューゲルの孫)とともに工房を構え、注文をこなしていました。
19歳のとき、アントワープ画家組合に親方として登録します。
ルーベンスの助手
《ミラノの大聖堂へ入ることを拒まれるテオドシウス帝》1619-1620年
当時、北ヨーロッパ全域で高い評価を得ていたルーベンスの工房の助手になります。
助手なので弟子ではありません、あくまで立場は対等でした。
とはいえ、この時点でのルーベンスとヴァン・ダイクとでは、その立場は天と地の差がありました。
22歳年上のルーベンスがヴァン・ダイクに与えた影響はとても大きかったのはもちろんのことでしたが、ルーベンスの方もヴァン・ダイクのことを「もっとも優れた弟子」だと評価していました。
ルーベンスは自分のところの大きな工房だけでなく、他の画家が経営する工房とも多くの絵画制作補助契約を結んでいました。
ティツィアーノに影響を受ける
21歳のとき、1回目のイギリス滞在、国王ジェームズ1世のための最初の作品を描きました。
このときの滞在で、第21代アランデル伯爵トマス・ハワードがロンドンに所有していた巨匠ティツィアーノの絵画を目にし、影響を受けます。
22歳のとき、イタリアへ行き、6年間、ティツィアーノなどヴェネツィア派を研究します。
《エレーナ・グリマルディの肖像》1623年
この頃には、優れた肖像画家として名声を確立し始めます。
イケメン貴族みたいな画家
イタリア人芸術家ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリはヴァン・ダイクのことを、
「古代ローマの画家セシウスみたいに華やかで紳士的、いつも豪奢な衣装を身にまとっていた。ルーベンスを通じて、その取り巻きだった貴族階級の人々の暮らしが身についていたのだろう。陽気な性格で、気品ある言動をとるように留意していた。身に着ける衣服は絹服が多く、羽根やブローチで飾られた帽子を着用して胸元には金鎖をあしらっており、いつも召使いをつれていた」
と記している通り、常に最高級の衣装を身にまとい、優雅な振る舞いと贅沢な暮らしぶりで、周囲からは何代も続く貴族の出と間違えられていました。
28歳のとき、アントワープに戻ると注文が殺到します。
ヴァン・ダイクは、パトロンたちから非常に魅力的な人物であると見なされており、ルーベンスと同じように貴族階級と宮廷人の双方から受け入れられ、このことがより多くの絵画制作注文につながっていました。
イザベラ大公妃のお気に入り
《修道女に扮したイザベラ大公爵夫人の肖像》1627年
30歳のとき、イザベラ大公妃の宮廷画家になります。
チャールズ1世の主席宮廷画家に
33歳のとき、2回目のイギリス滞在。
《ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン》1633年
英国王チャールズ1世の宮廷画家となり、ナイト爵と「サー」の称号、高額の給金と200ポンドの年金を手に入れました。
チャールズ1世はイギリスの歴代君主のなかでも特に芸術に興味を示し、美術品を収集した人物でした。
上の絵は、チャールズ1世の妻ヘンリエッタの肖像画です。
低身長・猫背・出っ歯だった彼女を、原型とどめないくらい美化して描いていたため、宮殿を訪れ、王妃と会見したドイツ貴族女性が、後に友人宛の手紙で、ヴァン・ダイクの肖像画とは似ても似つかぬ容姿でがっかりしたと書いています。
チャールズ1世はヴァン・ダイクのことを大変気に入っており、ロンドン中心部のブラックフライアーズに壮麗な邸宅兼工房を与えるだけでなく、王侯しか使用を許可されていなかったたエルサム宮殿内の個室も静養所としてヴァン・ダイクに提供しています。
工房には国王夫妻がよく訪れ、後に国王夫妻専用の道路が敷設されるほどだったそう。
さらに必要とあらば外国への旅行も自由にすることができました。
イギリスでこれほど厚遇された宮廷画家は、これまでただの1人もいませんでした。
35歳のとき、アントワープへ一時戻り、将来のことを考えて土地を買います。
さりげなく控えめでエレガンスな肖像画が大人気
《狩り場のチャールズ1世》1635年頃
イギリスへ戻り、この絵を描きました。
チャールズ1世の肖像画約40点、ヘンリエッタの肖像画約30点、ストラフォード伯爵トマス・ウェントワースの肖像画9点、その他の宮廷人、自画像、愛人マーガレット・レモンの肖像画も描きました。
ヴァン・ダイクの肖像画は、権力者の権威や威光などの描写(偉そうにふんぞり返った肖像画)は控えめにし、画面に脇役や小物を配し、くつろいだ雰囲気で優雅さと気楽さとが入り混じった表現で人物を描き、背景には豊かな自然の風景を描きました。
このようなヴァン・ダイクの絵画表現は18世紀の終わりになるまで、イングランドの肖像画に多大な影響を与え続けました。
記録によれば、ヴァン・ダイクの仕事時間は9時から4時までで、夕食は常に12人分を用意させ、食事の間、隣の部屋では雇われ楽団が音楽を奏でていました。
召使や馬丁も大勢いました。
数多くの作品を制作する一方、交流関係も派手で、愛人に子供を生ませてもいます。
手だけのモデルを雇って描いた
《右手》1610-1641年
当時、上流階級frは力仕事で節くれだっていない優雅な手が上品とされていたため、ヴァン・ダイクは男女それぞれの手の美しいモデルを雇って肖像画を描きました。
美しい手によって、モデルの気品を演出し、手が印象に残る作品を描きました。
ヴァン・ダイクひげ
《チャールズ1世(1600-1649年)》1635-1636年頃
こういうPVありません?(笑)
ベルニーニが彫刻を作る際のモデルとして使用するために、上の絵を制作してローマへ送りました。
この特徴的なひげ、「ヴァン・ダイク髭」という名前が付いていて、現在でも通じるそう。
当時の貴族の間でこの髭がとても流行り、チャールズ1世だけでなく、ヴァン・ダイク本人もこのスタイルでした。
なぜチャールズ髭ではなくヴァン・ダイク髭と呼ばれているのかというと、ヴァン・ダイクが描く男性の肖像画の多くがこのスタイルだったからです。
手入れはなかなか大変で、形をキープするために蝋で固めたり、夜はヒゲ袋に入れて寝たり、ヒゲ専用の香料をふりかけたり、場合によっては染めたり金粉をまぶしたりしたそう…。
貴族の娘と結婚
《メアリー・ヴァン・ダイク》1640年
39歳のとき、貴族の娘メアリー・ルースヴァンと結婚します。
彼女は、王妃付き女官でした。
チャールズ1世が、お気に入りのヴァン・ダイクを自分のところに引き留めておくための対策だったと考えられています。
尊敬していたルーベンスが亡くなります。
新居の準備のため、アントワープへ帰国します。
《ウィレム2世とメアリ・ヘンリエッタ》1641年
王家からの依頼で描いていた王女の結婚記念の上の肖像画が、宮廷画家としてのほとんど最後の仕事となりました。
しかし翌年旅先のパリで重病を患い(病名不明)、ロンドンへ帰ってまもなく亡くなりました。42歳でした。
娘のジャスティニアーナが生まれて10日後でした。
まとめ
・ヴァン・ダイクは、上品でくつろいだ雰囲気で描く肖像画が大人気だった画家