こんにちは!
今回は、マグリットについてです。
早速見ていきましょう!
目次
ルネ・マグリット (1898-1967年)
ルネ・マグリット《透視》1936年
ルネ・マグリットは、ベルギーのシュルレアリスムの画家です。
家庭崩壊
ルネ・マグリット《人の子》1964年
ベルギーのレシーヌで生まれました。
父レオポルトは紳士服の商人(仕立屋)、母レジーナは裕福な肉屋の娘でしたが没落して結婚するまでお針子をしていました。
父親は浪費家でギャンブルが大好きで、いつも家にいませんでした。
母親は重い神経衰弱を病んでいました。
父親は、あちこちに愛人をつくってほとんど家にいなかった代わりに、たくさんのお小遣いを息子たちに渡して甘やかしていました。
ルネ・マグリット《レイモン・マグリットの肖像》1923-1924年
マグリットには2歳下のレイモンと4歳下のポールの2人の弟がいました。
マグリットは弟のポールと一緒に信じられないようなひどいイタズラを繰り返す不良少年でした。
最初の記憶は…
最初の記憶は、ゆりかごの横に置いてあった箱だそう。なんともシュルレアリスムっぽい発言…笑
1歳のとき、ジリーに移りました。
ジリーにいた頃、家の屋根の上に飛行機が不時着したことがありました。
6歳のとき、シャトレに移りました。
墓地の地下納骨堂で女の子と遊ぶ
8歳(6、7歳とも)のとき、荒れた墓地の地下納骨堂で、よく女の子と探検遊びをしていました。
ある日真っ暗な地下から外に出ると、明るい光の中で、絵を描いている人物がいました。
枯葉の上のあちこちにある壊れた石柱の列を美しく描いていました。
その絵がまるで魔法のように見え、強烈に心に残ったそう。
12歳のとき、シャトレへ引っ越し、この地で初めてデッサンを学びました。
焼き絵も習いました。
母親の自殺を悲しむのではなく…
ルネ・マグリット《恋人たち》1928年
14歳のある夜、母親(42歳)は、子供たちを寝かしつけると、家を抜け出し、そのまま行方不明となってしまいました。
そして約1ヶ月後、地元のサンブル川の河川敷で遺体として発見されました。
のちにマグリットから話を聞いたルイ・スキュトネールによれば、川で母親が見つかったとき、白いナイトガウンの裾で顔が覆われていたとのことでした。
マグリットは後年、上のような布で顔を覆っている人物の絵を多数描きました。
この事件のあと、マグリット15歳のとき、一家はシャルルロワへ引っ越しました。
マグリットと弟たちは女性の家庭教師と女中によって育てられました。
映画好き、ファントマ大好き
ルネ・マグリット《炎の帰還》1943年
映画好きのマグリット少年は、映画『ファントマ』が大大大好きでした。
神出鬼没、正体不明の怪盗ファントマの超人的活躍は、人々を虜にしました。
ファントマの「誰でもない誰か」という目に見えるものが真実とは限らないという構造に、マグリットは強く惹かれたのかもしれません。
後年、ファントマを元にした作品をいくつか制作しています。
運命の出会い
1922年撮影 結婚した頃のマグリットとジョルジェット
15歳のとき、後に妻となる12歳のジョルジェット・ベルジェとお祭りで出会い、一緒にメリーゴーランドに乗りました。
その後離ればなれになった2人は、なんと7年後にブリュッセルの植物園で偶然再会し、2年後に結婚しました。運命…。
最初は印象派風の絵を描いていた
ルネ・マグリット《石膏胸像と果物》1917年
シャルルロワの公立中学校に通い、3年生のときから素描と油絵を習い始めると、中学校を中退してしまいました。
16歳のとき、第一次世界大戦が勃発し、一家はシャトレに移りました。
17歳のとき、印象派風の絵を描き始めました。
18歳のとき、マグリット1人だけブリュッセルに移り、王立美術アカデミーに入学し、2年間通いました。
学校の授業は退屈で、ほとんど出席しませんでした。
約2年後にマグリットの家族もブリュッセルに引っ越しました。
相変わらずファントマやルパンが大好きで、ボードレール、ニーチェ、リラダン、ヴェルレーヌ、グールモンの詩や著作を読み、またボードレールやマラルメを通じてポーに興味を持ち、ポーの怪奇小説はグリットの思考に大きな影響を与えたと考えられています。
画風を模索
抽象画やキュビスム的な絵を描いたりと、画風を模索していました。
広告デザイナー
ルネ・マグリット《強い兵隊さんになるために》1918年
20歳のとき、ポスターや広告デザインで生計を立てていました。
上のポスターは、現在わかっているなかで一番最初のマグリットの商業ポスターです。
経済的に困っていたときには、名画の複製や贋作を描いて生活費を稼いでいました。
その後もデザインの仕事をしながら絵画制作を続け、50代になってからやっと画業を本業にしました。苦労人です。
ルネ・マグリット《ピエール・ブルジョワの肖像》1920年
21歳のとき、詩人ピエール・ブルジョワと、翌年詩人で音楽家でコラージュ作家のE.L.T.メザンスと知りあい、仲良くなりました。
上の絵はフォーヴ風に描いた絵です。
ルネ・マグリット《E.L.T.メザンスの肖像》1930年
メザンスはのちに作曲家となるマグリットの末弟ポールにピアノを教えました。
ピエール・ブルジョワがおそらく冗談のつもりで、未来派の絵が載っているカタログをマグリットに送りました。
また彼は、マグリットを抽象画家ファン・ドゥースブルフの講演会に誘ったりしました。
マグリットは、未来派の作品に新しい絵画方法を見い出し、非常に影響を受けましたが、未来派の絵を描いたわけではありませんでした。
ルネ・マグリット《風景》1920年
未来派やキュビスム風の裸婦などを多く描きました。
ルネ・マグリット《女》1923年
若い芸術家、詩人、音楽家たちと交流するようになりました。
抽象画家ピエール・ルイ・フルーケと知り合い、一時期アトリエを共有し、雑誌『オ・ヴォラン』を数号発刊しました。
「…..現実の風景の中の細部や陰影の複雑な組合わせにもかかわらず、私はそれが目の前の1枚のカーテンにすぎないと見ることができた。」
マグリットのこの言葉から、彼にとって風景の奥行や距離感は切り捨てられ、ちょうど子供が手をのばせば空飛ぶ鳥や雲をつかまえられると思うのと同様に、風景は人が立っているすぐ向こうに垂直的に、平面的に位置していると考えていたことがわかります。
そして「動いているものでさえ、すべての実行を欠き、すべての密度を失ってしまったこの世界に、今や私は生命を与えねばならぬ」と思い、その具体的な方法を探し求めていました。
ブリュッセルで初のグループ展を開きました。
23歳のとき、歩兵隊として兵役に就きました。
兵役中に士官の肖像画3枚を制作しました。
結婚
ルネ・マグリット《無謀な企て》1928年
24歳のとき、ブリュッセルのサン・ジョス・テン・ノードの教会でジョルジェットと結婚しました。
彼女はマグリットの絵のモデルによくなっており、上の絵もそうです。
ルネ・マグリット、ビクター・セルヴランクス他《P.L.ファクトリー向けに制作された壁紙プロジェクトを含む2つのアルバム(アルバムD7-アルバムD8)》
美術学校時代の仲間セルヴランクスとともに、ブリュッセル郊外のピーター・ラクロワ壁紙製作所でデザイナーとして働きました。
セルヴランクスと共同で『純粋芸術、美学の擁護』を書きました。
オルフィスムや分析的キュビスムの影響を受けました。
ピエール・ブルジョワの詩集の装丁をデザインしました。
「普通の生活」を演じていた?
マグリットは、3LDKの住宅に妻と暮らしていました。
アトリエを持たず、食卓でイーゼルを立てて、スーツにネクタイ姿で絵を描いていました。
ルネ・マグリット《文明人》1944年
朝起きるときれいに髭を剃り、スーツとネクタイ、山高帽をかぶって散歩に出かけました。
そして、いつも子犬のポメラニアンを連れていました。
この愛犬の方がマグリットよりも目立っていたそう。
午後は毎日カフェなどで大好きなチェスをし、夜10時には就寝するという、規則正しい生活を送っていました。
謎めいた絵を描いている割に、マグリットの暮らしぶりはいたって普通で、意識的に「普通の生活」を演じていたのでは?ともいわれています。
そしてこの暮らしは、後年大成功を収めた後も変わることはありませんでした。
デ・キリコの衝撃 シュルレアリスムへ
ジョルジョ・デ・キリコ《愛の歌》1914年
24歳のとき、友人ルコントに教えられ、雑誌に載っていたデ・キリコの上の絵の複製図版を見ました。
マグリットは「私の目は初めて思考を見た」と、感極まって泣き、これがきっかけでシュルレアリスムに目覚めました。
この絵には、青い空、建物、大きな外科医のゴム手袋と古代彫刻の頭部、球体、蒸気機関車が描かれています。
マグリットはこれまで、未来派や抽象画のような「画風」を模索していました。
しかし、デ・キリコの絵と出会って、絵画技法自体は写実的なもので、一つ一つはありふれているのに、相互に無関係なオブジェを並べることで、違和感が生まれ、それが謎や神秘を表すという彼の表現方法に魅了されました。
この作品についてマグリットは、「(デ・キリコの絵の)輝かしい詩情は、伝統的な絵画の陳腐な効果に取って代わるものでした。……そこにあったのは新しいヴィジョンであり、そこでは見る者は自らの孤独を認識し、世界の沈黙に耳を傾けるのだ」と述べています。
当時、キリコの形而上絵画は、マグリットだけでなく若い画家たちに大きな影響を与えました。
マックス・エルンストやイヴ・タンギーもとても影響を受けており、キリコはシュルレアリスムの先駆者として高く評価されています。
マグリットは、エルンストからコラージュの手法とデペイズマン(転置)の効果の重要性を教わりました。
エルンストのコラージュは、古い書物などから切り抜いた図版を寄せ集めて、摩訶不思議で斬新なイメージを作り出したものでした。
マグリットは彼のコラージュについて「はさみ、糊、イメージ、天性のひらめきが、絵筆、絵の具、モデル、様式、感受性、芸術家たちの聖なる霊感のお株を奪ってしまいました」と語っています。
しかしマグリットは、ダリのように直接キリコ的表現を応用することはありませんでした。
25歳のとき、壁紙デザイナーの仕事をやめ、フリーランスの商業デザイナーとして広告ポスターや見本市ブースの制作に専念しました。
ビヤホールで瞑想
ルネ・マグリット《水浴の女》1925年
27歳のとき、ブリュッセルのあるビヤホールで一定の時間瞑想するのが習慣となっていました。
ジョルジェットによると、マグリットは、外へ出かけても、石や木の葉を注意ぶかく見つめるだけで、スケッチは一切しなかったそう。
また彼が好んで描いたけん玉や馬の鈴なども家にはありませんでした。
ポーの怪奇小説を繰り返し読むほか、ハイデッガー、ヘーゲル、カントの哲学書を熟読し、また多くの時間をチェスに費やしました。
音楽はサティ、ドビュッシー、ラヴェルが好きで、部屋の中にはグランドピアノが置いてありました。
家庭での彼は口数少なく、楽し気でもなく悲し気でもなく、つねに考えごとをしているように見えたそう。
メセンスと雑誌『マリー』を発刊しました。
初のシュルレアリスム作品
ルネ・マグリット《失われた騎手(迷える騎手)》1926年
27歳の年から翌年にかけて約60点制作しました。
メザンスたちとダダの雑誌『食道』を発刊しました。
28歳のとき、初のシュルレアリスム作品である上の絵が完成しました。
夜になりつつあるなか、馬に乗った騎手が走り去っていきます。
木はビルボケ(けん玉)で、楽譜のコラージュで表されており、もの寂しい光景に優雅な雰囲気を漂わせています。
画面の両側に幕があることで舞台的な空間を演出しつつ、右端のビルボケが幕に掛かっていることから前後関係が曖昧になっています。
マグリットは「失われた騎手(迷える騎手)」というテーマを繰り返し扱いました。
マグリットいわくこの作品は、「ある神秘的な感覚、『理由なき』不安への回答のみを目的として」構想したそう。
マグリットのシュルレアリスムは、「超現実」というよりも、「現実」に肩透かしを食わせている感が強いのが特徴です。
ルネ・マグリット《人間の条件》1933年
私たちが窓だと思って眺めている景色は、本物そっくりに描かれた絵なのではないか?などとこちらに考えさせる作品が多いです。
28〜30歳の3年間は、マグリットが人生で最も作品を制作した時代で、200点以上の絵を描きました。
「神秘協会」というグループをつくる
この頃、ブリュッセルでマグリットを中心に「神秘協会」を結成しました。
メンバーはメザンス、ルコント、ゴーマン、ヌジェ、スーリ、スキュトネールたち詩人・音楽家でした。
名前の怪しさから秘密結社のようにも思えますが、特に共通の目的を掲げるわけでもなく、マグリットを中心に仲の良い信頼できる友人たちの集まりでした。
これをベルギーのシュルレアリスムグループの出発とみることもできますが、オートマティスムを否定し、ほとんど著作や発表を行なわず、無名性を重要視し、パリのシュルレアリストたちとは違う考えを持った、ベルギー独自のグループでした。
マグリットによれば、「1926年から1936年の間に制作した絵は、人の心を動揺させる効果の体系的探究の産物であった。この効果は画面上でものを演じさせることにより得られたが、完全に自由な交互作用により、これらのものを借りてきた現実の世界に詩的意味を与えたのである。」
その手段としては、まず何よりも物の転置(デペイズマン)が有効であり、物を常識的な環境の中から追放して異質の環境の中に移し置きました。
特にそれを日常的な事物によって行なうとき最も効果があります。
彼は自分のいくつかの方法について次のように言っています。
「新しい事物の創造;よく知られた対象の転換;ある物の場合は材質の変化━━たとえば木の空;ある物への間違った命名;友人に暗示されたアイディアの実行;半睡状態でみたヴィジョンの再現━━全般的に言ってこれらが事物をセンセーショナルにし、人の意識と外部世界との間に奥深い接触を確立する手段であった。」
パリのシュルレアリストと交流しました。
初の個展を開催
ルネ・マグリット《秘密の競技者》1927年
29歳のとき、ブリュッセルのル・サントール画廊で初の個展を開催しました。
しかし、反響もなく、批評家たちにも理解されませんでした。
3年間パリに滞在
その後、パリ近郊のペルー=シュル=マルヌに移住しました。
シュルレアリスム運動に参加し、パリのシュルレアリストたち、特にブルトン、エリュアールと親しくなりました。
30歳のとき、ブリュッセルのレポック画廊で個展を開きました。
ヌジェと共同で映画を制作し始めました。
8月、父親が亡くなりました。
愛妻家
エピソードのないことがエピソードの画家と言われるほど、これといったエピソードが残っていないマグリットですが、そんな彼が妻を大切にしていたことがわかるエピソードがひとつだけあります。
長くなるので気になる方はこちら↓
ブルトンとマグリット
ルネ・マグリット《イメージの裏切り》1928-1929年
31歳のとき、ブルトンとの関係が悪化します。
ブルトンはダリとも揉めましたが、マグリットとも意見が合いませんでした。
しかし、ブルトンは、心の中ではマグリットのことを高く評価しており、彼がニューヨークで出版した『シュルレアリスムと彼岸』第二版のジャケットにマグリットの《赤いモデル》を使用したり、率直な賛辞の言葉も残しています。
夏になると、ダリ 、ミロ、ブニュエル、ゴーマンらとスペインのカダケスでバカンスを過ごしました。
雑誌「シュルレアリスム改革」に「言葉対イメージ」を発表しました。
ルネ・マグリット《自由の扉で》1930年
32歳のとき、グーマンス画廊のシュルレアリスムのコラージュ展に参加しました。
ブルトンを避け、ベルギーに帰国し、ブリュッセルに定住しました。
以降短期の旅行以外、ベルギーを離れることはありませんでした。
ルネ・マグリット《トフィー・アントワーヌ・トニーズ》1931年
ブリュッセルで商業美術の仕事を再開し、弟のポールとデザイン事務所スタジオ・ドンゴを設立しました。
上の広告はスタジオ・ドンゴで制作したものです。
ベルギーの美術家や詩人たちと付き合い、多くの展覧会に参加し出品しました。
35歳のとき、パリのピエール・コル画廊のシュルレアリスム展に参加しました。
個展、展覧会
ルネ・マグリット《赤いモデル》1935年
38歳のとき、ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊でアメリカでの初個展が開催されました。
上の絵はそのとき出品されたもので、マグリットの代表作です。
ロンドンの国際シュルレアリスム展に参加しました。
ルネ・マグリット《複製禁止》1937年
39歳のとき、友人で裕福なイギリス人のエドワード・ジェイムズの招待で数週間ロンドンに滞在しました。
上の絵のモデルは彼で、彼はマグリットの作品をいろいろと購入していました。
ルネ・マグリット《イラスト化された青春》1937年
40歳のとき、パリの国際シュルレアリスム展に参加しました。
ロンドンで個展が開催されました。
41歳の9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発しました。
マグリットはベルギーにとどまりました。
41歳頃から、48歳頃にかけて、多くの個展を開き、グループ展、シュルレアリスム国際展に参加しました。
ニューヨークでは「幻想美術、ダダ、シュルレアリスム」展に参加しました。
ロンドンでは「国際シュルレアリスム」展に参加しました。
以降展覧会がヨーロッパ、アメリカ各地で多数開催されました。
ルネ・マグリット《帰還》1940年
42歳の5月、ドイツ軍のベルギー侵攻を避け、スキュトネールらとパリを経て南仏のカルカソンヌへ移りましたが、3ヶ月後、ブリュッセルに戻りました。
突然のルノワール時代
ルネ・マグリット《第1日》1943年
44歳の頃から数年間、突然ルノワール風の印象派的な絵を制作しました。
ドイツ軍占領下のベルギーで陰鬱な生活を送るうちに、彼は明るく幸せに満ちた絵に魅力を感じるようになりました。
47歳のとき、ベルギー共産党に入党しましたが、すぐに失望し、短期間で離党しました。
5月、ドイツが降伏しました。
9月、イギリス軍がブリュッセルを解放しました。
ルネ・マグリット《不思議の国のアリス》1946年
48歳のとき、「シュルレアリスト・レヴォリュショネール」のグループに参加しました。
ブルトンとは相変わらずうまくいきませんでした。
エリュアールの詩集『生活の必要性』のために12枚の挿画を制作しました。
ルネ・マグリット《ポンポポンポポンポンポンポン》1948年
49歳のとき、「ヴァッシュ(雌牛)」の時代と呼ばれる、フォーヴィスム風の作品を制作し始めました。
しかし世間からも妻ジョルジェットから不評で、1年間ほどで本来の画風に戻りました。
ルネ・マグリット《高度な集会》1947年
スキュトネールがマグリットについての研究書を発表しました。
ルネ・マグリット《解放者》1947年
国際的な評価の高まり
50歳のとき、第24回ヴェネツィア・ビエンナーレ展で、ベルギー館に一室を与えられました。
パリで初の個展をフォブール画廊で開催し、ヴァッシュ様式の連作を出品しました。
ニューヨークで展覧会が開かれました。
51歳のとき、ニューヨークのイオラス画廊で展覧会が開かれました。
52歳のとき、パリ国立近代美術館の展覧会に《遠近法ーダヴィッドのレカミエ夫人》を出品しました。
この頃から絵のモチーフに石化した物体を描くようになります。
ルネ・マグリット《リスニングルーム》1952年
マグリットの絵画は、一見わかりやすくて日常的で身近なアイテムが描かれています。
しかし、その組合わせが突飛で、人の意表をつくような作品が多いのが特徴です。
マグリット《幸せな手》1952年
見えるべきものが消えたり、隠れた部分が見えたり、物の非現実な組み合わせや、自然の遠近の逆転や錯綜、物の材質の転換などによって、マグリットは私たちの固定化した常識を挑発し、びっくりさせ、未知の世界を表現して見せてくれます。
ルネ・マグリット《ゴルコンダ》1953年
カジノの壁画
ルネ・マグリット《魅せられた領域Ⅰ》1953年
55歳のとき、ベルギーの保養地クノッケ=ヘイスト市営カジノ、クノッケ・ル・ズートの広間に8点の壁画《魅せられた領域》を制作しました。
マグリットが弟ポールと作った偽装紙幣を、友人で詩人・写真家のマリエンがベルギーの海岸で配りました。
イタリアで初の個展をローマで開催しました。
ニューヨークのイオラス画廊、ロンドンのルフェーヴル画廊、ローマのオベリスコ画廊、パリのエトワル・セレ画廊で展覧会が開かれました。
光の帝国
ルネ・マグリット《光の帝国》1954年
マグリットは《光の帝国》を27枚描いています。
マグリットは「昼と夜の共存が、私たちを驚かせ、魅惑する力を持つのだと思われる。この力を私は詩と呼ぶのだ」と語っています。
56歳のとき、ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで最初のマグリット大回顧展が開かれました。
ヴェネツィア・ビエンナーレに出品しました。
ルネ・マグリット《無知な妖精》1956年
上の絵はフレスコ画、つまり壁画です。
シャルルロワのパレ・デ・ボザールの議会ホールに描かれ、今もその場所にあります。
58歳のとき、アレクサンドル・イオラスと肖像画を除く作品の独占代理店契約を結びました。
イオラスはこれ以降マグリットの絵の販売と個展の開催を全て行いました。
友人と一緒に書いた台本をもとに短い映画を制作しました。
グッゲンハイム賞(ベルギー部門)を受賞しました。
ルネ・マグリット《レディ・メイドの花束》1957年
59歳のとき、シャルルロワのパレ・デ・ボザールのために、壁画《無知の妖精》を制作しました。
サンパウロ・ビエンナーレ展に出品しました。
ニューヨークのイオラス画廊でこの年から3年連続で展覧会が開かれました。
60歳のとき、雑誌『レトリック』の発行人アンドレ・ボスマンと出会いました。
マグリットはその後彼と頻繁に文通を行い、彼の雑誌にも積極的に協力しました。
ルネ・マグリット《ブドウの収穫月》1959年
61歳のとき、リュク・ド ・ユーシュがマグリットの家で映画『ルネ・マグリットあるいは実物教育』を撮影し、翌年上映されました。
E・L・T・メザンスの『詩篇1923ー1958』に挿絵10点を描きました。
ルネ・マグリット《テーブルに座っている男》1960年
62歳のとき、ブルトンを訪問しました。
スージ・ガブリックがマグリットに関するエッセイを書くために、ブリュッセルのマグリットの家に長期で滞在しました。
ダラスとヒューストンで回顧展が開かれました。
63歳から1年間、アメリカでイヴ・タンギーとの共同展が巡回されました。
ルネ・マグリット《喜びを求めて》1962年
64歳のとき、クノッケ・ル・ズートのカジノでマグリット大回顧展が開かれました。
66歳のとき、パリのイオラス画廊でマグリットの「固有の感覚」展が開かれ、ブルトンがカタログに序文を書きました。
ひっそりと世を去る
67歳のとき、サンパウロ・ビエンナーレ展に出品しました。
病気により制作活動を中断しました。
ニューヨーク近代美術館でのマグリット展のポスター
ニューヨーク近代美術館で大回顧展が開かれ、欧米双方の収蔵品を最大限に展示しました。
68歳のとき、自分の絵の中からブロンズ彫刻を作るため、8点を選びました。
これらの作品は、翌年1968年、パリのイオラス画廊で展示されました。
ロッテルダムのボイマンス美術館で総括的な回顧展が開かれました。
そして8月、その回顧展が開かれている間に、短期入院した後、膵臓癌のためブリュッセルの自宅で静かに亡くなりました。
マグリットの作品は、ポップアートにも多大な影響を与えました。
まとめ
・マグリットは、思考そのものを絵にした「イメージの魔術師」