こんにちは!
今回は、ムンクの《マドンナ》を解説します。
早速見ていきましょう!
マドンナ
エドヴァルド・ムンク《マドンナ》1894年
この絵のモデル、ダグニー・ユールは、ムンクと同じノルウェー人で4歳年下でした。
彼女の叔父はノルウェーの首相、父親は医者という裕福な家庭に生まれました。
ベルリンの「黒仔豚亭」というカフェ(現存せず)で、芸術家グループのマドンナ的存在だったダグニーは、その性的奔放さから「アスパシア(有名な遊女の名前)」というあだ名で呼ばれていました。
ミステリアスな雰囲気と美貌と知性で多くの男性を魅了しました。
30代前半のムンクも、「黒仔豚亭」のメンバーと同じように彼女に夢中になり、自由奔放な彼女にかなり嫉妬したそう。
結局「黒仔豚亭」のメンバーの中から彼女が選んだのは、ポーランドの作家ブシビシェフスキでした。
エドヴァルド・ムンク《マドンナ》1894-1895年
《マドンナ》というタイトルはムンクが付けたわけではなく、この作品を購入したオスロ国立美術館長が付けた題名です。
「マドンナ」の語源は、古いラテン語の「MEA DOMINA(私の女主人)」です。
キリスト教では伝統で「聖母マリア」という特別な意味で使われるようになりました。
比喩的に「憧れの女性」という意味も含んでいます。
頭部にある赤いものは帽子ではなくて聖なる光輪です。怪しげ…。
このポーズと恍惚とした表情から、男性を誘惑しているように見えます。
エドヴァルド・ムンク《マドンナ》1895-1897年
ブシビシェフスキは3人目を妊娠中だった愛人を捨て(彼女は後に不審死。ブシビシェフスキが殺したのではと警察に疑われましたが、自殺か事故ということに)、ダグニーと結婚しました。
息子が生まれましたが、幸せは長くは続きませんでした。
エドヴァルド・ムンク《マドンナ》1893-1895年
ブシビシェフスキは友人の妻と不倫、別の女性を妊娠させ、アルコール依存症に。
ダグニーは息子を両親に預け、独身時代と同じように自由な生活を送りました。
ダグニーは34歳の誕生日の3日前に、グルジア(現在はジョージア)のトビリシ市にある小さなホテルで、彼女に好意を寄せていたグルジア人青年にピストルで頭を撃ち抜かれて亡くなります。
彼も翌日自殺しています。
母親が射殺されるのを5歳の息子が目撃していたとも、ブシビシェフスキが事件に関与していたともいわれていますがよくわかっていません。
エドヴァルド・ムンク《マドンナ》1895-1902年
油彩で描くだけでなく、上のようなリトグラフも制作しました。
赤い枠には精子と不気味な胎児が描かれています。
エドヴァルド・ムンク《マドンナ》1895-1902年