こんにちは!
今回は、現在イギリスで最も人気のある画家のひとりコンスタブルを解説します。
早速見ていきましょう!
ジョン・コンスタブル(1776-1837年)
ジョン・コンスタブル《自画像》1806年
ジョン・コンスタブルはイギリスの画家です。
彼やターナーの登場によって、風景画というジャンルが市民権を得ることになりました。
画家を目指したのは遅い
ロンドンの北東にあるのどかな田園地帯のサフォーク州イースト・バーゴルトで、裕福な製粉業者の次男として生まれました。
兄が知的障害者だったこともあり、父親はコンスタブルを後継者にと考えていましたが、結局コンスタブルの弟が製粉所の経営を引き継いでいます。
子供の頃、大自然の中でのびのびと何不自由なく過ごしました。
絵に興味を持ち、地元のガラス屋のジョン・ダンソーンとスケッチに出かけました。
19歳のとき、美術愛好家のボーモントと出会いました。
彼は後にコンスタブルのパトロンになっています。
23歳のとき、ロイヤル・アカデミー附属美術学校の見習生となり、翌年には正規の学生となりました。
その時のルームメイトが贋作を描いていると知って失望します…。
コンスタブルは、ゲインズバラやクロード・ロラン、ルーベンスなどの作品から影響を受けました。
風景画の地位が低いことを知る
ジョン・コンスタブル《デダムベール》1802年
26歳のとき、初めてアカデミーの展覧会に出品しました。
そのときに、風景画の地位が低いことを知りました。
この頃から、戸外で自然を描くようになりました。
油彩のスケッチを描き溜め、これらは後にアトリエで制作する際の着想源となりました。
38歳から41歳のときには、展覧会出品用の大型作品を、ほぼ完全に戸外で制作しました。
これが出来たのも、近くの製粉所に画材を置くことを許し、専用のアトリエを村に用意してくれた父のおかげでした。
イギリス各地にスケッチ旅行に出かけました。
故郷かロンドンか
ジョン・コンスタブル《司教の敷地からのソールズベリー大聖堂》1826年
コンスタブルは、冬はロンドンで過ごし、夏は故郷のイースト・バーゴルトで絵を描くというという生活をしていました。
35歳のとき、ジョン・フィッシャー博士がパトロンになりました。
37歳のとき、ロイヤル・アカデミーの夕食会で1歳年上のターナーと出会いました。
39歳のとき、母親が亡くなり、翌年父親が亡くなりました。
最愛の妻
ジョン・コンスタブル《マリア・ビックネル、ジョン・コンスタブル夫人》1816年
40歳のとき、28歳の提督の事務弁護士の娘マリア・エリザベス・ビックネルと結婚しました。12歳差です。
33歳のときには2人は恋愛関係にありましたが、マリアの祖父が反対していた(画家という職業を見下していた)ため、結婚が遅くなったそう。
彼女の祖父は牧師でした。
結婚式では、マリア側の親族は誰も出席しませんでした。
この絵は結婚式の前に描かれた作品です。
2人の間には7人の子供が生まれましたが、12年後、彼女は結核で亡くなってしまいます。
生活のため、風景画よりお金になる肖像画を多く制作しました。
43歳のとき、マリアの体調不良のため、郊外のハムステッドに移住しました。
この年、ようやくロイヤル・アカデミー準会員となりました。(ターナーは27歳で正会員)
正会員になるのはさらに10年後の53歳のときでした。
母国よりフランスで人気
ジョン・コンスタブル《干し草車》1821年
コンスタブルの故郷サフォークの平凡な風景を詩情豊かに描き出した作品です。
45歳のとき、母国のロイヤル・アカデミーに出品した時は全く話題になりませんでしたが、
49歳のときにパリのサロンに出品したときは絶賛を浴び、ロマン派の画家ドラクロワやジェリコーにも大きな影響を与えました。
シャルル10世から金賞も受賞しました。
このように、コンスタブルの作品は、母国のイギリスよりも、フランスで人気でした。
野外での制作を始めたことや、刻々と変化する光の効果をとらえようとしたこと、
そしてパレットで色を混ぜ合わせるのでなく画面上に異なる色の筆触を並べたりしたことなど、その制作態度や技法は印象派に先駆するものでした。
48歳のとき以降、結核を患う妻の療養のため、イングランド南岸サセックスの海辺の町ブライトンを何度も訪れました。
ブライトンは、ジョージ4世が建てた異国風の私邸で知られるリゾート地で、コンスタブルは、最初この街があまり好きではなかったため、人気のない浜辺や、住人が少ない丘陵地帯などを描いていました。
52歳のとき、肺結核で妻が亡くなりました。
妻の死から数ヶ月後に、ロイヤル・アカデミーの正会員に選出されたという知らせが届きました。
美術の権威に認められたことによって、批評家たちの反応に縛られずに主題と技法を選ぶことができるようになりました。
そこで描いたのが、想像力を駆使した「ピクチャレスク」な絵画です。
54歳以降、風景画の歴史と意義について講義を行ったり、ロイヤル・アカデミー美術学校で指導をしたり、夏季展覧会の選考委員会に2度加わったりもしました。
そして61歳で亡くなりました。
まとめ
・コンスタブルは、風景画の地位を向上した画家で、印象派の先駆け