こんにちは!
今回は、アンリ2世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエについてです。
早速見ていきましょう!
目次
ディアーヌ・ド・ポワティエ(1499-1566年)
フォンテーヌブロー派《狩りの女神ディアナ》1540-1560年
ディアーヌ・ド・ポワティエ(ポワチエ)は、フランスの貴族女性で、アンリ2世の愛妾として有名です。
上の絵では、月の女神ディアナ(フランス語読みでディアーヌ)としての彼女が描かれています。
美しき未亡人
フランソワ・クルーエの模倣者《ヴァランティノワ公爵夫人、ブレゼ夫人ディアーヌ・ド・ポワティエ》1551-1600年
15歳のとき、40歳近く年上のアネの領主に嫁ぎ(よくある政略結婚のパターンで珍しくはない)、2人の娘を産みました。
博学で芸術等にも造詣が深く、善良な人物だったといわれているこの夫が、彼女を教養ある女性にしようと熱心に教育しました。
ディアーヌも彼の期待に応えようと努力し、2人の仲は良かったそう。
31歳で未亡人となり、以降、死ぬまで喪服で過ごしました。
ここからが彼女の新しい人生の始まりでした。
魅惑の家庭教師
《ディアーヌ・ド・ポワティエの肖像》16世紀
ディアーヌは、夫の存命中から、フランソワ1世の最初の王妃クロードの侍女となり、クロードの死後はフランソワ1世の母ルイーズ、次いでフランソワ1世の2番目の王妃エレオノールの侍女となりました。
1525年のパヴィアの戦いでフランソワ1世がカール5世の軍隊の捕虜となった後、フランソワ1世の8歳の長男と7歳の次男のアンリは、父と引き換えに人質としてスペインに送られました。
アンリの母クロードはすでに亡くなっており、彼がスペインに送られるときに、別れのキスを送ったのはディアーヌでした。
《ディアーヌ・ド・ポワティエ》16世紀後半
完璧な貴婦人の見本のごときディアーヌは、やっとフランスに戻ってきた11歳のアンリ王子の家庭教師に任命されました。
彼は、ディアーヌにメロメロで、運命の女性と思い定め、求婚までしました。
アンリ2世の愛妾に
フランソワ・クルーエ《浴室の女性》1571年
もちろん王族に許される話ではなく、2年後には無理やりイタリアのカトリーヌ・ド・メディシスと結婚させられました。
彼女はいわずと知れた大富豪メディチ家の娘で、若さでは勝っていても、美しさではディアーヌにはとても敵いませんでした。
フランソワ・クルーエ《浴室の女性》1559年頃
アンリもカトリーヌに興味はなく、引き続きディアーヌを優先しました。
将来の国王夫婦には子供がなく、ディアーヌはカトリーヌを気遣って、アンリが妻の寝室を頻繁に訪れるように仕向けました。
ヴァロワ王朝をつなぐのに、 男児の数は多いに越したことはありません。
ベルナルト・リック《モーセの発見ー寓話的な家族の肖像》1556年頃
そのころアンリは、長男が事故死したため王太子になっており、さらには王アンリ2世となって、カトリーヌに全部で10人の子を産ませることになります。
ディアーヌは彼らの子供たちの教育係も務めました。
上の絵は、モーセの物語を描きつつも、アンリ2世の家族が描かれており、ファラオの娘(1番露出度の高い人物)としてディアーヌも描かれています。
死ぬまで溺愛(バカップル)
アレクサンドル=エヴァリステ・フラゴナール《ジャン・グージョンのアトリエでのディアーヌ・ド・ポワティエ》19世紀
驚いたことにアンリの熱い愛は、死ぬまでディアーヌに注ぎ込まれました。
宮廷の真の女主人は王妃ではなく、20歳も年上の愛妾でした。
アンリ2世は、自分の戴冠式で、儀式用のマントにアンリのイニシャルのHと、妻カトリーナ…ではなく、ディアーヌのイニシャルのDの刺繍が無数に施されたものを身にまとい、出席者を驚かせました。
ピエール・ニコラ・ボーヴァレ《鹿に寄りかかったディアナ》1540-1560年
フォンテーヌブロー城の壁にも、ふたつの絡み合ったイニシャルがつけられ、すべての服、すべての武器にさえもHとDがありました。
上の彫刻は、上の絵の中に登場しているもので、以前はジャン・グージョン作だと思われていたものです。
この彫刻もよく見ると…
HとDのイニシャルが刻まれています。
ディアーヌは知性、政治的洞察力に優れており、アンリ2世は多くの公式書類をディアーヌに任せ、2人の名を併せて「HenriDiane」と署名することさえ許しました。
フランチェスコ・プリマティッチオ《ヴァランティノワ公爵夫人、ブレゼ夫人ディアーヌ・ド・ポワティエ》1504-1570年
王はディアーヌに新たな爵位を与え、高価な宝石ばかりか、カトリーヌ自身も欲しがっていた王室所有の美しい白亜の城館シュノンソーまでプレゼントしました。
馬上槍試合では、最高の愛の栄誉たる挨拶もおくりました。
狩へも戦場へもどこへでも彼女を同伴し、連日のように会い、会った後まで恋文を書きました。
こんな2人の関係を、王妃カトリーヌはどんな思いで眺めていたのでしょうか…。
伝説の美魔女
《女神ディアナに扮するディアーヌ・ド・ポワティエ》1500-1550年
アンリはディアーヌを母のように慕ったのではなく、理想の女性として30年近く愛しました。
雪白の肌や老けにくい顔立ちという生まれつきの側面だけでなく、彼女の努力も並大抵ではありませんでした。
フォンテーヌブロー派《浴室の女性》16世紀後半
毎朝冷水浴を欠かさなかったし、乗馬で肉体を鍛錬し、休憩を挟んで読書、食べすぎず、フルーツをとり、早寝早起き…。
ディアーヌがアンリを心底愛したからこそ、アンリも彼女を愛し続けました。
しかし、この稀な関係に突然の終わりがやってきました。
ノストラダムスの予言が的中
フォンテーヌブロー派《ディアーヌ・ド・ポワティエ》1550年頃
40歳のアンリが妹と娘がそれぞれ結婚することを祝う宴の余興として馬上槍試合に出場し、相変わらず若々しい60歳のディアーヌが特別席から応援しました。
有名なノストラダムスの予言『百詩篇』が当たったのはこの時です(なのでノストラダムスの予言の話といえば取り上げられるド定番の詩篇です)。
百詩篇第1巻35番
若きライオンは老いたるに打ち勝つだろう
一騎討ちによる戦いの野で
黄金のカゴの中の両目を、「彼」は引き裂くであろう
二艦隊の一方、そして死す、酷き死
若きライオンとは王の対戦相手、黄金のカゴとはアンリの兜を指します。
王は長槍に眼を突き刺されて落馬しました。
重症の王に代わってカトリーヌが支配権を握り、王への接見を制限しました。
アンリは繰り返しディアーヌの名を呼びましたが、カトリーヌがそれを許しませんでした。
アンリは、数日の苦悶の末に亡くなりました。
カトリーヌの逆襲
フランチェスコ・プリマティッチオ《狩りの女神ディアナとしてのディアーヌ・ド・ポワティエの肖像》1550年
王の死によって、それまで誰からも軽んじられていたカトリーヌが、国家ナンバーワンの女性となりました。
彼女はまだ幼い息子を王座に置き、摂政となって力をふるい、実はバリバリの政治能力の持ち主だったことを周りに示しました(恐怖でいうことを聞かせる系の…)。
後年「聖バルテルミーの虐殺」を主導し、歴史はカトリーヌを稀代の悪女と呼ぶことになります。
そんなカトリーヌです。
ディアーヌに対して長年の嫉妬や恨みが募り積もっていたはずです。
しかし、意外や意外、命まで取られることはありませんでした。
というのもディアーヌは、天狗になることなく、常にカトリーヌを気遣い、カトリーヌもディアーヌのことを嫌っていなかったからでは?ともいわれています。
ただし、王から与えられたものは一切合切返還するよう要求され(王がディアーヌに贈ったものリストを作っていたとか)、王の葬儀に招かれることもなく、都からも宮廷からも追放されました。
特に困ることもなく余生を過ごす
フランソワ・クルーエの工房《ヴァランティノワ公爵夫人、ブレゼ夫人ディアーヌ・ド・ポワティエ》16世紀半ば
ディアナはカトリーヌによってシュノンソー城から追放され、ショーモン城に移りました。
とはいえ、実際には、ショーモン城の方が付属する領地からの収入が多かったし、シュノンソー城は王や来客接待用の城であり、王亡き後のディアーヌにはあまり接待の必要もなかったことから、「無理やり」ではなく双方合意の上だったという説もあります。
ディアーヌはショーモン城に短期間滞在しただけで、残りの人生をアネにある自分の城で、誰にも顧みられず、しかし平安に過ごしました。
そして王の死から6年後の67歳のとき、ひっそりと世を去りました。