こんにちは!
今回は、美術アカデミーの存在意義や立場を解説します。
早速見ていきましょう!
目次
王立絵画・彫刻アカデミー
イタリアを手本に
そして、自意識を高めた画家や彫刻家たちが手本として目を向けたのが、芸術先進国のイタリアでした。
「神のごときミケランジェロ」と讃えられ、芸術家という概念を確立した一人であるミケランジェロ。
この天才を崇拝したヴァザーリは、1550年に美術史の原点ともいうべき『芸術家列伝』を執筆したことで知られています。
そのヴァザーリが1563年にフィレンツェで創設したのがアカデミア・デル・ディセーニョでした。
そして1571年以降、このアカデミアに属する画家と彫刻家は、フィレンツェで仕事をするために義務づけられていた同業者組合に入会する必要がなくなりました。
一方ローマでは、1577年にアカデミア・ディ・サン・ルカ(聖ルカ・アカデミー)が創設され、画家や彫刻家の知的側面の向上と、彼らの職人から芸術家への社会的地位の向上が図られました。
ルネサンス芸術がイタリアからフランスに取り入れられたように、職人の同業者組合ではなく知性を重んじる文化的なアカデミーという概念も、イタリアからフランスに渡ってきました。
王立絵画・彫刻アカデミーの誕生
ニコラス・ロワール《王立絵画・彫刻アカデミー創設の寓意》1666年
こうして、エリート意識を持ち始めた画家や彫刻家が、職人の身分に属する同業者と区別するためにルイ14世に承認を願って創設したのが王立絵画・彫刻アカデミーでした。
このアカデミーで中心人物となり、影響力を発揮したのがシャルル・ル・ブランでした。
そして、ニコラ・プッサンの押しかけ弟子だった彼は、美術理論だけでなく画家の理想像としてもブッサンを崇めました。
その結果、プッサンの存在はフランス美術の「規範」となりました。
プッサンへの憧れ
ニコラ・プッサン《自画像》1649-1650年
官僚貴族の家柄に生まれたプッサンは、当時のエリート教育であったラテン語教育を受けて育ちました。
この時代、画家になる予定の少年には必要のない教育でした。
当然のことながら両親の大反対を押し切り、プッサンは画家の道を目指すことになりました。
豊かな知識と教養、貴族的な品性と高い道値観を持ったプッサンは、アカデミーというフィルターを通して、「卑しい」と社会から見なされていた職人階級からの脱却を図ったル・プランをはじめ会員たちの理想像として映りました。
プッサンは、審美眼がなく教養にも欠ける大衆に迎合することをよしとせず、教会の祭壇画のような公的な仕事をできるだけ避け、裕福で教養のある上流階級の顧客のための私的な作品を制作するようにしていきました。
その結果、単純に目だけを楽しませるような作品ではなく、知性と理性に訴えて感動させる作品を描くことができました。
そして、「主題は高貴でなければならない」と考えたプッサンは、大衆は単純に色彩に魅了されると見なし、それを俗悪と考えました。
そのため彼は絵画制作において、感覚に訴える色彩ではなく、知性と理性に訴えることができる「フォルムと構成」を重 視しました。
こうしたプッサンの制作姿勢および理論が、アカデミーの公的な美の規範、すなわちフランス古典主義となりました。
もちろん、プッサン自身が学んだラファエロ、そしてラファエロが学んだ古代美術も芸術的規範でした。
色彩を重視した「ヴェネツィア派」への評価は、 当然ラファエロよりも低いものでした。
人生の円熟期のほとんどをローマで過ごしたプッサンでしたが、彼は大勢の知識エリートと見なされた友人や顧客をフランスに持ち、彼らを通じてプッサンの作品はフランスにもたらされました。
「プッサン」という絶対的な美の規範
ニコラ・プッサン《アルカディアの牧人たち》1638-39年
そしてルイ14世付き首席画家であり、1663年にはアカデミーの会長に就任した弟子のシャルル・ル・ブランや、プッサンのパリでの修業時代の友人で、アカデミーの創設メンバーの一人であったフィリップ・ド・シャンパーニュなどがプッサンの絵画理論を基にしたフランス古典主義を広めました。
こうして感覚ではなく知性に訴えるために、色彩よりもフォルムと構成を強調し、フランス古典主義が公的な様式となりました。
知識人であり文人画家であるプッサンの画家としてのあり方、そして彼の知的な特質を強調した絵画理論は、自由学芸との同一化を目指すアカデミーにとって、そして同業者組合との差別化を図りたい会員たちにとっても、「美の規範」以外の何物でもありませんでした。
アカデミー会員であることは知的エリートであり文化人貴族であるという意識は、結果として非会員である同業者に対する差別を強化する結果となりました。
それから2世紀を経た19世紀においても、新古典主義としてプッサンの古典主義の復活を担ったダヴィッドやアングルたちは、17世紀のようにプッサンを画家および絵画理論の理想ととらえ、この古典主義がフランスの公的な様式として通っていたことを考えると、いかに印象派が前衛的だったかが想像できます。
アカデミー会員が作品の販売に携われない理由
ニコラ・ド・ラルジリエール《シャルル・ル・ブラン》1683-1686年
アカデミーのエリート意識は、アカデミー会員が作品の販売に携わることを厳しく禁じました。
貴族が商売をしないことと同じという考えがありました。
実際に、ル・ブランは1662年にはルイ14世によって貴族として叙任され、年金を受け取る身分となっています。
こうして王立絵画・彫刻アカデミーが、組織的に同業者組合(聖ルカ・アカデミー)との差別化を図った結果、当時の階級社会において卑しい身分と見なされた画家から、一気に第三身分での頂点に立つ知識人となり、高級官僚になりました。
アカデミーの厳格な教育プログラム
そしてル・ブランがアカデミーの会長になって以降、アカデミーの付属美術学校では理論と実践において体系化され、規則に則った厳格な教育プログラムが編成されました。
このル・ブランが編成した職人ではなく芸術家を養成するための教育プログラムは、 1768年にロンドンで創設された王立アカデミー・オブ・アートをはじめとする他の美術アカデミーや、現代の美術大学や美術学校の手本にもなりました。
大衆ではなくアカデミー会員に認められるかが大事
ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル《アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち》1801年
ルーヴル美術館など存在せず、イタリアでの美術教育が絶対視されていたため、コルベールとル・ブランは1666年にローマに支部「フランス・アカデミー」を創設しました。
そして、コンクールで「ローマ賞」を受賞した優秀な生徒を国費でローマに留学させ、古代美術や古典的絵画を模写させて学ばせました。(上の絵はローマ賞受賞作品)
そして帰国後は、準会員を経てアカデミーへの入会申請作品を提出し、アカデミー会員による厳しい審査の後に晴れて正会員となることができました。
作品の評価に関しても、販売が目的である同業者組合と違い、アカデミーにおいては売れるか売れないかとか、大衆に受けるか受けないかではありません。
文化人貴族であり、 知識人であるアカデミー会員により、美術理論に基づく規範に則して裁定されていました。
アカデミーと親方の下での修行の違い
アカデミー付属美術学校での教育と、親方画家の下での修業はどのように違ったのでしょうか。
まず簡単にいうならば、アカデミーが集団で学ぶ学校だとしたら、徒弟制度の下での修業は親方により個別に仕事の秘訣を伝授される個人授業ということです。
一方、付属美術学校での基本は、男性裸体モデルのデッサンと体系化された理論的な学術的規範を集団で学ぶことにありました。
親方の技巧を見て学ぶ修業と違い、アカデミーは規格化された理論と実践による教育を重視しました。
修業ではなく教育によって、職人階級との差別化を図りました。
そして同時に、画家たちをさまざまな拘束があった同業者組合から解放もしました。
プロパガンダに利用された美術
イアサント・リゴー《ルイ14世の肖像》1701年
王立絵画・彫刻アカデミーに対しても、そしてプッサンの美術理論に対しても時代が味方をしました。
1661年にルイ14世の親政が始まると、フランスは絶対王政を確固たるものにするために、ルイ14世に仕えたジャン=バティスト・コルベールは美術も中央集権化することにしました。
国王とフランスの威厳を高めるため、美術をプロパガンダとして利用しました。