聖ルカアカデミーってなに?王立絵画・彫刻アカデミーとなにが違うの?超解説!

こんにちは!

今回は、聖ルカ・アカデミーについてです。

早速見ていきましょう!

聖ルカ・アカデミーとは?

グエルチーノ《聖母の絵を見せる聖ルカ》1652-1653年

王立絵画・彫刻アカデミーの前にあった聖ルカ・アカデミー

フランスにおける美術アカデミーの歴史は1648年に始まりました。

「王立絵画・彫刻アカデミー」が創設されました。

一方、パリには他のヨーロッパの都市同様にすでに同業者組合である「聖ルカ・アカデミー」が存在しました。

聖ルカは、最初に聖母マリアの肖像画を描いたとされる人物で、そのことから全ての芸術の保護者とみなされるようになり、彼の名がついています。

画家や彫刻家として生計を立てるためにはここに所属することが必須でした。

その歴史は古く、ルイ9世の求めに応じて1268年に編集された数あるパリの同業者組合の規約集に、画家彫刻家組合が記されています。

そして1391年、この組合は独自の規約を制定し公的に発布したため、1391年がパリの聖ルカ・アカデミーの創設年とされています。

アカデミーとはいっていますが、内情は他のヨーロッパの都市にあった聖ルカ組合と同様の同業者組合でした。

芸術家という概念がなかった

レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》1495-1498年

パリにはすでに聖ルカ・アカデミーが存在していたのに、あらためてわざわざ王令によって承認を求め、王立絵画・彫刻アカデミーを創設しました。

なぜそんなことをしたのか創設者たちの心情や目的を理解するためには、当時のフランス社会における画家や彫刻家がおかれていた社会的な地位を知る必要があります。

というのも、王立絵画・彫刻アカデミー創設当時、フランスはまだ「芸術の国」でも何でもなく、イタリアこそが芸術の先進国であり「芸術家」という概念はイタリアにこそあれ、フランスでは芸術家という存在の認識さえありませんでした。

「芸術家」という概念は、フランスではなくイタリアで生まれたものでした。

レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロが活躍した1495~1520年頃を盛期ルネサンス時代と美術史では呼びますが、まさにこの頃に彼らは職人から芸術家という華々しい地位へ昇華しました。 

芸術家と職人の違いはなに?

では、芸術家と職人との違いは何なのでしょうか?

その違いは簡単なもので、芸術家は神の如く万物に精通し、王侯貴族からも一目置かれる知的エリートと見なされた、いわば文化人貴族ともいうべき存在でした。

一方、職人は当時の階級社会では労働者階級に属していました。

つまり芸術家は知的な活動を行うエリートであるという概念に対し、職人は肉体労働者と見なされていました。

そして、器用に制作された絵画や彫刻は工芸品と見なされ、制作した人物の知性や理性が作品に反映されているものが芸術品と見なされていました。

アカデミーも当初は革新的だった

ジャン・クルーエ《フランソワ1世》1525-1550年

ルネサンス発祥の地である芸術先進国イタリアでは、16世紀を迎える頃にはすでに芸術家および芸術品という概念が生まれ、それらは職人および工芸品という概念から切り離されていました。

しかし一方で、フランスではフランソワ1世の即位以降、イタリアの芸術運動を輸入することに熱心だったにもかかわらず、芸術家という概念はフランスでは広まりませんでした。

そこでしびれを切らしたのが、一部の画家や彫刻家たちでした。

彼らは、職人の同業者組合である聖ルカ・アカデミーでは十分ではないと考えました。

そのうえ、単にステータスの向上だけではない、同業者組合にありがちな問題点も存在していたため、それに対してもメスを入れたのが王立絵画・彫刻アカデミーでした。 

2世紀後には保守の権化のような存在になる王立絵画・彫刻アカデミーも、創設当初は組織自体がフランス美術界に新たな風を吹き込む革新性がありました。