画家ムリーリョを超解説!アイドル級の可愛さの聖母を描いた?

こんにちは!

今回は、ムリーリョについてです。

早速見ていきましょう!

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(1617-1682年)

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《自画像》1670年頃

バルトロメ・エステバン・ムリーリョは、スペインの画家です。

孤児に

スペイン南部のセビリアで、裕福な家庭の14人兄弟の未子として生まれました。

父親は、民間医師兼床屋でした。

両親は、ムリーリョが9歳、10歳のとき、相次いで亡くなり、父親の姉夫婦のもとで育てられたといわれていますが、少年時代についてはよくわかっていません。

15歳のとき、母親の親戚だった画家フアン・デル・カスティーリョの元で修業を積みました。

ムリーリョの叔父も画家でした。

巨匠の絵を見て勉強

26歳のとき、マドリードに移住しました。(といわれていますが、移住していない説もあったり、時期についても諸説あります)

そこでムリーリョはおそらくベラスケスの作品を見たり、王室のコレクションでヴェネツィアとフランドルの巨匠の作品を見たと考えられています。(というのも、後の作品に豊かな色彩などその影響が見られるからです)

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《メロンとブドウを食べる子どもたち》1645年頃

27歳のとき、セビリアに戻り、ベアトリス・カブレライ・ビジャロボスと結婚し、2人の間には11人の子供が生まれました。(うち5人をペスト等で亡くします)

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《天使の台所》1646年

最初の大規模な注文である、セビリアのフランシスコ会修道院の装飾事業として11枚の絵を描きました。

無原罪の御宿りのモデルは耳の聞こえない娘

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《エスコリアルの無原罪の御宿り》1660-1665年

ムリーリョは自身の絵画の中で最大の成功をもたらしたテーマ、聖母マリアの純潔性をあらわした「無原罪の御宿り」に特化し始めました。

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《無原罪の御宿り》1660-1665年

聖母マリアのモデルは、耳の聞こえなかったムリーリョの6人目の娘でした。

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《蚤をとる少年》1647-1648年

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《窓際の2人の女性》1655-1660年

芸術アカデミーを設立

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《良い羊飼い》1660j年

40歳から42歳までマドリードに移住し、またセビリアに戻りました。

アカデミア・デ・ベラス・アルテス(芸術アカデミー)を創立しました。

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《カナの婚礼》1672年頃

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《聖三位一体》1675−1682年頃

64歳のとき、セビリア南方の海辺の町カディスの修道院で制作中、足場から転落したことが原因で亡くなったといわれています。

まとめ

ムリーリョは、甘美な聖母像や愛らしい子供の絵を多く描いた画家