10頭身の人物が独特すぎる?エル・グレコを超解説!

こんにちは!

今回は、10頭身で人物を描いた画家エル・グレコについてです。

早速見ていきましょう!

エル・グレコ(1541-1614年)

エル・グレコ《老人の肖像》1595-1600年

エル・グレコは、ギリシャの画家です。

誰が見てもグレコの作品だとわかる、唯一無二の個性のある作品を残しました。

エル・グレコはあだ名

本名は、ドミニコス・テオトコプロスで、エル・グレコはイタリア語で「ギリシャ人」を意味するあだ名です。(エルはスペイン語の男性定冠詞、グレコがイタリア語、異国語同士の組み合わせで「あのギリシャ人」という意味)

自作には本名でサインしていたにもかかわらず、エル・グレコと呼ばれています。

クレタ島のカンディアで生まれました。

ここはヴェネツィア共和国の領土でした。

父親は税官史だったため、一家は裕福でした。

幼少期の記録についてはほとんど残っていません。

画家として独立

エル・グレコ《東方三博士の礼拝》1565-1567年

25歳のときには、イコン(お祈り用の聖像画)画家として独立していました。

というのも、クレタ島は、1000年も前にビザンティン帝国は滅亡していたにもかかわらず、イコン制作の伝統が残っていたからです。

イコンは単なる宗教画とは違い、それ自体が奇蹟を起こすと信じられており、礼拝の対象でした。

26歳のとき、ヴェネツィアのティツィアーノ工房で働きました。

平面なイコンの画法から、遠近法や解剖学、油彩の使い方を学び身につけていきました。

ローマへ

29歳のとき、ティツィアーノの後継者を自負していたグレコは、さらに上を目指してローマへ行きました。

エル・グレコ《ジュリオ・クローヴィオの肖像》1571-1572年

細密画家として有名なジュリオ・クローヴィオと知り合い、彼のパトロンだったファルネーゼ枢機卿を紹介してもらいます。

パラッツォ・ファルネーゼの人文主義サークルで教養を深めました。

しかし31歳のとき、グレコは突然ファルネーゼ枢機卿に解雇されてしまいます…。

エル・グレコ《ピウス5世の肖像》1600-1610年

教皇ピウス5世が、カトリック教会の乱れた風紀を改めることを決定した際、ミケランジェロ最後の審判の壁画(裸の人々が描かれていたため)にダメ出しをし、描き直しさせてほしいと申し出たともいわれていますが真偽の程は不明…。(どちらにせよ結局描き直されることはありませんでした)

トレドへ

35歳のとき、スペインのマドリードを経てトレドへ行きました。

ローマからトレドへ移ったのは、当時、神のごとき存在であったミケランジェロを、ローマで酷評したことが原因だといわれています。(ミケランジェロの絵画は嫌いだけど、デッサンは絶賛しています)

同時代人からも、描く絵と同じくらい本人も変わっていると思われていました。

というのも、当時まだスペインでは知られていなかったマニエリスムを取り入れた作風だったことや、プライドが高く、依頼主とよくもめ、何度も訴訟沙汰になっているからです。

トラブル

エル・グレコ《聖衣剥奪》1577-1579年

グレコは依頼主とのトラブルでも有名です。

36歳のとき、トレド大聖堂から上の作品を依頼されますが、出来上がった作品を見て「キリストに対する冒涜」を理由に報酬を踏み倒されそうになり、裁判で争うことに…。

大聖堂はグレコを異端審問にかけるとほのめかしたため調停を受け入れ、当初グレコが提示していた額の約3分の1が支払われました。

愛する息子

エル・グレコ《ホルヘ・マヌエルの肖像》1600-1605年

37歳のとき、ヘロニマ・デ・ラス・クエバスとの間に、息子ホルヘ・マヌエルが生まれました。

彼女との仲はあまり上手くいってなかったようですが、息子のホルヘは溺愛していました。

非嫡出子のままだと息子がかわいそうだと思い、何とかしてあげたいと思っていたのにヘロニマと結婚しなかったことから、グレコが亡くなるまで正妻が生きていたのでは?ともいわれていますが、結婚していたのかもよくわかっていません。

宮廷画家にはなれず…

エル・グレコ《聖マウリティウスの殉教》1580-1582年

42歳のとき、国王フェリペ2世から、修道院の聖堂を飾る用の絵の注文を受け、上の絵を制作しました。

かなり期待していたようで、どれほど高価な絵の具を使っても構わないと前渡し金も相当な額でした。

ここで成功すれば宮廷画家になれるかも!と、張り切って制作し、完成作に自信満々でした。

しかし、フェリペ2世からは、「祈る気が失せる」と、気に入ってもらえず、聖堂ではなく、格下の参事会会議室に掛けられ、宮廷画家の望みも断たれてしまいます…。

ロムロ・チンチナート《聖マウリティウスの殉教》1583年

ちなみにグレコの絵の代わりに採用され、聖堂に飾られたのが上の絵です。

フェリペ2世は、上のような殉教のシーンがメインで描かれている絵を求めていました。

とはいえ、文化と宗教の中心地トレドでは、グレコの神秘性と情熱を併せ持つ独創的な作品が高く評価され、注文はたくさん来ており、修道院、教区聖堂、礼拝堂などの祭壇画などを多数手がけました。

しかし度々、絵の内容や報酬でもめていました。

インテリ

知識欲旺盛なグレコは、100冊以上の蔵書を所持し、書物の中に多くの書き込みをしました。

ちなみに当時の書物は貴重品でした。

ヴァザーリの「美術家列伝」(有名な画家の伝記を書いた有名な本)などに、びっしり自己の芸術観や批評を書き込んでおり、教養の高さがうかがえます。

44歳のとき、侯爵から24部屋もある広大な邸宅を借りてそこに住み、食事のときは楽士を呼び、骨董品を集めたりと贅沢な暮らしをし、工房も拡大しました。

グレコの訴訟や贅沢は、画家の地位を高めるためのパフォーマンスでもありました。(当時のスペインはイタリアと比べて画家の地位が非常に低かったため)

エル・グレコ《オルガス伯爵の埋葬》1586-1588年

信仰の厚いオルガス伯の埋葬の際、2人の聖人が点から舞い降り伯爵の埋葬を行ったという伝説を描いた作品です。

エル・グレコ《受胎告知》1597-1600年

55歳のとき、マドリードの祭壇衝立の注文を受けました。

以降、祭壇衝立の仕事が続きました。

現存するグレコの絵画の85パーセントが宗教画で、最も人気があったのが《受胎告知》で、14点現存しています。

10パーセントは肖像画でした。

エル・グレコ《精霊降臨》1600年

エル・グレコ《トレド眺望》1599-1600年頃

絶筆

エル・グレコ《ラオコーン》1610-1614年

グレコは宗教画を描いた画家ですが、絶筆最初で最後の神話画《ラオコーン》でした。

晩年は人気がなくなる

71歳のとき、画家となった息子が、父と自分の墓所として、サント・ドミンゴ・エル・アンティーグオ修道院の一隅を借りました。

代金は、息子の描く祭壇画でした。

晩年は注文も激減し、遺産もほとんどなく73歳でトレドで亡くなりました。

グレコが再評価されたのは遅く、19世紀になって、ピカソやセザンヌが脚光を浴び、グレコの影響が指摘されるや否や、再び無二の巨匠として評価されるようになりました。

まとめ

グレコは、銀色を帯びた色調と、引き伸ばされた人物像が特徴の画家