こんにちは!
今回は、ウィリアム・ブレイクについてです。
早速見ていきましょう!
ウィリアム・ブレイク(1757-1827年)
トマス・フィリップス《ウィリアム・ブレイクの肖像》1807年
ウィリアム・ブレイクは、イギリスの画家、詩人です。
イングランドの国歌として有名な聖歌『エルサレム』は、ブレイクの預言書『ミルトン』の序詞が歌詞です。
不思議っ子
ロンドンの靴職人の家に生まれました。
幼い頃から幻視を何度となく体験していました。
絵の才能あり
すでに絵が上手かったブレイクを父親は応援しており、10歳のとき、地元で有名なヘンリー・バーズ画塾に入りました。
15歳のとき、銅版画化ジェイムズ・バサイアの工房に弟子入りし、本の挿絵などを制作しました。
親方の資格を取り、バサイアの助手として銅版画をたくさん制作しました。
22歳のとき、ロイヤル・アカデミーへ入学しましたが、会長のレノルズと喧嘩して即学校をやめ、銅版画家として独立しました。
結婚
ウィリアム・ブレイク《オベロン、チタニア、パックと妖精の踊り》1786年頃
25歳のとき、キャサリン・バウチャーと結婚し、生家近くに移りました。
27歳のとき、版画展を開き、弟ロバートを弟子にして仕事をしました。
30歳のとき、ロバートが病死したとき、ブレイクは、ロバートがうれしそうに手をたたきながら天に登っていく幻影を見ました。
ウィリアム・ブレイク《無垢の歌》1797-1800年
32歳のとき、妻と弟に手伝ってもらい完成した詩画集『無垢の歌』『セルの書』を出版しました。
この詩画集は、後々まで注文があり、生活資金になりました。
ブレイクは妻ととても仲が良く、家の通路の葡萄の木の下で『失楽園』を裸に帽子だけかぶり、2人で読んでいたのを近所の人に目撃されています…。
35歳のとき、ランベスの小洒落たテラスハウスに移りました。
クセのある絵
ウィリアム・ブレイク《日の老いたるもの》1794年
ブレイクは、肖像画も風景画も描きたがらず、想像(本人にとっては現実)で絵を描いたため、クセが強くなかなか売れませんでした。
ウィリアム・ブレイク《ニュートン》1795-1805年
数学や物理などが大嫌いだったブレイクにとって、近代科学の祖ニュートンは敵でした。
ウィリアム・ブレイク《アダムを裁く神》1795年
38歳のとき、12点の連作カラー版画集に着手しました。
エドワード・ヤング「夜想」の挿絵や、水彩画を537点制作しました。
ウィリアム・ブレイク《キリスト降誕》1799-1800年
43歳のとき、3年間ロンドンを離れ、サセックス、フェルファムの田舎でのどかな生活を楽しみました。
ブレイクは、「膠の使い方は、マリア様の夫で大工のヨセフに教わった」と言い、油絵は好きではないからフレスコで描いたと言い、上の絵もそう主張していますが、実際には膠を使ったテンペラ画でした。
ウィリアム・ブレイク《ヤコブの夢(「創世記」第28章12節)》1799-1806年
45歳のとき、作品は全く売れず、ロンドンのサウス・モールトン通りのアパートを借りました。
ウィリアム・ブレイク《巨大な赤い龍と太陽の衣をまとった女》1805年
46歳のとき、王政に反対のブレイクは、兵隊と争いを起こし裁判沙汰になりますが、パトロンのヘイリーのおかげで無罪になりました。
若い画家の間で人気に
ウィリアム・ブレイク《蚤の幽霊》1819-1820年頃
61歳のとき、若い画家ジョン・リネルと知り合い、彼が絵を定期的に購入してくれるようになり、描いた絵のほとんどを買ってくれました。
次第に若い画家の間でブレイク支持が広がりました。
67歳のとき、リネルの注文でダンテの『神曲』の挿絵に着手しました。
100点の下絵のうち、完成したのは7点のみでした。
最後まで愛妻家
死の当日、何かを悟ったのかそれまでずっと描き続けていた『神曲』の挿絵の制作をやめ、妻に「わたしにとって君はいつも天使だったよ」と言い、彼女の絵を描きあげると、賛美歌と詩を歌い始めました。
この妻のデッサンが遺作(残念ながら現存していません)となり、妻に「いつも一緒にいるよ」と約束した後、69歳で亡くなりました。
まとめ
・ブレイクは、幻視体験からインスピレーションを受けて絵や詩をつくった画家