こんにちは!
みなさんもマリー・アントワネットの絵を一度は見たことがあるはず!
その絵を描いたのは、当時ではとても珍しく女性の画家で、しかも王妃と同い年で友達だったんです!
どんな画家だったのか、早速見ていきましょう!
目次
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1755-1842年)
《麦わら帽子をかぶった自画像》1782年
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランはフランスの画家です。
ほとんど全ての女性画家がそうであるように、彼女の父親も画家でしたが、12歳のときに亡くなっています。
当時、女性は美術学校に入学することができず、裸体を見ることも描くことも禁止されていたため、歴史画に必須の骨格研究をすることがほとんどできませんでした。
そのため、画家になるには、親が画家で自宅に工房があるという場合にほぼ限られていました。
さらにいうと、身分制社会においては、そもそも働く女性自体、軽蔑の対象でした。
ドワイヤンやグルーズなど当時有名だった画家たちから絵のアドバイスをもらったりと、画家として恵まれた環境にありました。
10代前半で、もう肖像画の注文を受け、腕前はプロ級でした。
19歳のとき、パリの聖ルカ組合会員となり、独立しました。
武器となった美貌
《自画像》1781年
多くの自画像や、同時代の証言からも、彼女は人目を惹く美女だったことがわかります。
さらに、ファッション・センスも良く、注文主の貴族たちと渡り合える物腰や態度を身に付けていたことが強みとなりました。
もちろん自画像は多少美化してるとは思いますが、美人でなければ、マリー・アントワネットの取り巻きにはなれなかったはずです。
ヴィジェ=ルブランは、多くの自画像を残していますが、それは一種の宣伝活動でもありました。
どういうことかというと、組合のサロンに自画像を飾っておけば、見に来た人が、絵から醸し出される優雅さと軽やかさ、豊かな感情表現、そして美しさに感心し、自分や自分の家族をこんな風に描いてほしいと思わせるためです。
これは大成功し、注文が殺到し、彼女は生涯に650点以上肖像画を制作しました。
21歳のとき、画家であり画商であったジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚します。
マリー・アントワネットとの出会い
《宮廷衣装のマリー・アントワネット》1778年
マリー・アントワネットの肖像画を描くためにヴェルサイ宮殿に呼ばれたヴィジェ=ルブラン。
上はその時描いた絵です。
今までの他の画家たちが描いてきた肖像画には、しっくりきていなかった王妃も、ヴィジェ=ルブランの絵には大変満足し、王妃専属画家に抜擢しました。
偶然にも同い年の23歳だったこともあり、王妃と画家という関係を超えて2人は友達になりました。
低い階級出身のヴィジェ=ルブランは、どちらかといえば、王侯貴族の贅沢三昧な生活のせいで飢えて苦しむ貧しい民衆寄りのはずですが、彼女は心底からの王党派で、美の理想を具現化している王妃のことが大好きでした。
娘ジュリーが生まれる
《ジュリーとの自画像》1786年
24歳のとき、娘ジュリーが生まれます。
愛くるしい絵が多く残っていますが、成長するに連れて素行が悪くなり、勝手に結婚したりして、ヴィジェ=ルブランは悲しんだそう。
王妃のおかげでアカデミー会員に
《モスリンのシュミーズドレスを着た王妃マリー・アントワネット》1783年
アカデミー(絵画界の権威)に入ろうとしたら、女性だということと、夫が画商という理由で断れらてしまいます。
画商のことを、絵を金儲けの道具として見ているやつらだと敵視している人がいたんでしょう。
ですが、ヴィジェ=ルブランはなんと言ってもマリー・アントワネットの超お気に入りです。
マリー・アントワネットが夫のルイ16世に頼み、国王の権力でヴィジェ=ルブランをアカデミー会員にしました。
マリー・アントワネットとギロチン
フランス革命で王族たちが逮捕されます。
身の危険を感じたヴィジェ=ルブランは、すぐに娘を連れて国外へ逃げます。
いち早く逃げたことによって、ギロチンを免れることができました。
もし逃げ遅れていれば、マリー・アントワネットに寵愛され、そばにいた、というだけで死刑です。
逃げ遅れた宮廷の人々は続々と処刑されました。
亡命先で、大好きな王妃の死を知ったヴィジェ=ルブランはどんな気持ちだったのでしょうか。
イタリア、オーストラリア、ロシアと転々としますが、どこへ行っても各地の貴族から大歓迎、仕事が尽きることはなく、夫へも定期的に仕送りし続けていました。
ローマの聖ルカ組合の会員にもなりました。
1802年、フランスに約12年ぶりに戻ることができました。
その頃のフランスは、ナポレオンが支配していました。
ナポレオンの妹にキレる
《カロリーヌ・ボナパルトと娘レティツィア》1807年
イギリスを訪れた際に、ナポレオンの妹の肖像画を描くことになりましたが、
わがまますぎる態度や行動に、「王族だってこんなに待たせないのに?!?!」とキレながら描いたのがこの作品です。
《コリンヌに扮したド・スタール男爵夫人》1809年
当時は、ナポレオンお気に入りの画家ダヴィッドが美術界で権勢をふるっており、ロココ風は好まれなくなり、新古典主義絵画がもてはやされていました。
ヴィジェ=ルブランもその作風に挑戦し、上の絵を完成させました。
有名な作家スタール夫人は、これまでのヴィジェ=ルブラン風を希望していたようで、完成したこの絵を嫌ったといわれています。
その後もしばらく新古典主義の絵を描きましたが、自分には合わないと気づいてやめています。
ナポレオンとの関係が微妙な感じになってきたので、スイスへ移りました。
スイスでも熱烈歓迎され、ジュネーヴ芸術協会の名誉会員にも選ばれました。
さらに7年後、王政復古したフランスへ戻り、ルイ18世に手厚く迎えられます。
1人だけ長寿
《婦人の肖像》1831年
76歳のとき、上の絵を描きました。
ロシア風のヘアスタイルをした無名の女性像でした。
みずみずしいタッチは、画家の年齢を感じさせません。
作風を変えようとしたヴィジェ=ルブランでしたが、求めに応じて元の作風へ戻りました。
夫も娘にも先立たれましたが、ヴィジェ=ルブランは87歳まで生きました。
晩年は自叙伝を執筆し、姪と一緒に暮らしました。
まとめ
・ヴィジェ=ルブランはマリー・アントワネット専属の画家 ・2人は同い年で友達だった ・ルブランの絵は貴族にとても人気があった