こんにちは!
今回は、ウォーホルとは正反対で真面目だったリキテンスタインについてです。
早速見ていきましょう!
ロイ・リキテンスタイン(1923-1997年)
ロイ・リキテンスタイン《自画像》1978年
ロイ・リキテンスタインは、アメリカの画家です。
アッパーミドルクラスのいい子
上流中産階級のユダヤ系両親の息子として、ニューヨークで生まれました。
真面目な性格で、ジャズやアートが好きでした。
17歳のとき、オハイオ州立大学美術学部に入学しました。
途中、陸軍での3年間の兵役期間を含んで第二次世界大戦後の1949年、26歳で同大学で修士号を取得しました。
卒業後も大学にとどまり、講師を務めました。
26歳のとき、イザベル・ウィルソンと結婚しました。
初の個展
28歳のとき、ニューヨークのカール・バック画廊で初の個展を開催しました。
製図工、大学講師などをしながら生計を立て、当時は最新の抽象表現主義風の作品を制作していました。
リキテンスタインの代名詞となっている、漫画のコマを拡大したような作品は、30代後半の1960年代初頭に登場しました。
ミッキーマウス
ロイ・リキテンスタイン《見て!ミッキー》1961年
ある日息子が、ミッキーマウスの漫画を指差しながら「お父さん、こんなに上手く絵描けないでしょ?」と言ったことから、上の作品は出来上がりました。
彼は自分の子供にミッキーマウスの漫画を描いてあげたときに、それまでのいわゆる芸術としての絵画よりも、漫画の方が強烈なインパクトと表現力を持っていることに気が付きました。
マンガ
ロイ・リキテンスタイン《Whaam!》1963年
被写体は全て太い輪郭線で囲まれた平面として表され、色は原則として三原色のベタ塗り、陰影はドットの大小や密度で表現しています。
また赤・黄・青の三原色と白・黒に限定した色使いは、モダニズムの抽象画家であるモンドリアンにも共通しています。
漫画の平面性を強調した作風は、平面性を強調した抽象表現主義と重なる部分があります。
何がすごいのか
ロイ・リキテンスタイン《溺れる少女》1963年
「ただ漫画を拡大しただけじゃん。何がすごいの?」って思いません?
リキテンスタインの作品すごいところは、「考えなくても絵の意味がわかること」です。
どういうことかというと、それまでのアート作品は、鑑賞者が知識や想像力を使って「読み解く」こと前提に作られており、ちょっと不思議な部分があったり、感情に訴えかけてくる部分がありました。
となると、その人の思い込みや偏見で鑑賞することになります。
そこを排除したのがリキテンスタインの作品です。
彼の作品は、上の絵でもわかるようにセリフがそのまま入っていたり、擬音語や文章が入っていたりと、絵の中の人物やモノの状況を説明しています。
上の絵は、DCコミックスが元ネタの絵なのですが、「私は気にしない!沈む方がいい…ブラッドに助けを求めるよりも!」というセリフ、背景のうねる波、少女が涙を流していることからも、溺れかけていること、自分のことばかりで彼が助けにきてくれない状況だということは誰が見ても理解できます。
このように、どこで誰が何をしているのかをわかりやすく示し、鑑賞者の想像の余地をできるだけ排除するという手法が斬新だったので、リキテンスタインの作品は「すごい」んです。
『ライフ』誌に酷評される
ロイ・リキテンスタイン《泣いている女の子》1964年
41歳のとき、『ライフ』誌が「彼は史上最悪のアメリカ人アーティスト?」という彼への批判を掲載しました。
しかし、リキテンスタインは特に気にせず、その後も黙々と作品を作り続けました。
この頃から、彫刻の制作も始めました。
ロイ・リキテンスタイン《M-Maybe》1965年
42歳のとき、離婚しました。
45歳のとき、ドロシー・ヘルツカと結婚しました。
名画オマージュ
ロイ・リキテンスタイン《積みわら》1969年
ロイ・リキテンスタイン《アルルの寝室》1992年
モネやゴッホの作品など、名画を漫画同様、平面的な手法で描くシリーズを制作しました。
ロイ・リキテンスタイン《日本橋と睡蓮》1992年
色使いも、三原色以外の色も使うようになり、また絵画の中に鏡面を取り入れたり、立体作品の制作なども手掛けるようになりました。
ロイ・リキテンスタイン《La Nouvelle chute d’Amérique P59》1992年
72歳のとき、京都賞思想・芸術部門(美術分野)を受賞しました。
73歳のとき、肺炎で亡くなりました。
まとめ
・リキテンスタインは、コミックをアートにした画家