こんにちは!
今回は、ポンペイの犠牲者の石膏についてです。
早速見ていきましょう!
犠牲者の石膏
どのように死んでいったのか
ポンペイの多くの犠牲者がどのようにして死んでいったかについては、意外にもまだ多くの論争があります。
噴火時に発生した火砕流の速度は時速100km以上で、市民は到底逃げることはできず、一瞬のうちに全員が生き埋めになりました。
多くの死を招いた主な要因は灰やガスではなく、火砕サージ(火山灰と空気の混ざった高熱の爆風)などによる高温の熱によるものだったのでは?とも言われています。
犠牲者の石膏
ポンペイの犠牲者の石膏はなんとなく知っていても、どうやって作っているのかは知らない方も多いのではないでしょうか?
悲劇が起こった後に犠牲者が発掘された際には、遺体部分だけが腐敗消失し、火山灰の中に空洞ができていました。
考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げまどう市民の最期の瞬間を再現しました。
顔までは再現できませんでしたが、母親が子供を覆い隠して襲い来る火砕流から子供だけでも守ろうとした様子、飼われていた犬がもだえ苦しむ様子が生々しく再現されました。
この様子から、火砕流が一瞬にしてポンペイ市を埋め尽くしたことがわかります。
(disegni di U. Cesino)
出典:ポンペイ考古学公園『I CALCHI』
犠牲者の石膏は、どのようにして作られているのか、ポンペイ考古学公園のHPにわかりやすい説明イラストがありました。
上のポンペイ考古学公園の動画でも、制作方法の一部を見ることができます。
この石膏像の制作によって遺骨が損傷したため、ポンペイ市民の法医学的な調査は長らく滞っていました。
オプロンティス荘近くの商館と思われる建物の地下室から老若男女身分がバラバラ(居場所は身分別にある程度グループを作って固まっていた)な54体の遺骨が発見されました。
彼らは火砕流からは難を逃れましたが、火山性ガスによる窒息で死亡して火山灰に埋もれていました。