こんにちは!
今回は、モネの第1回印象派展についてです。
早速見ていきましょう!
モネの第1回印象派展
前回のおさらい
戦後の好景気でハピネスな日々を過ごしていたモネでしたが、金融危機で状況は一転、なんとか自分たちで絵を売ることはできないかと考え始めました。
ズタボロの第1回印象派展
クロード・モネ《印象、日の出》1872年
1874年、モネ34歳のとき、第1回印象派展を開催しました。
主催は、モネ含む30人のメンバーで構成された組織「画家、 彫刻家、版画家などの合資会社」です。
クロード・モネ《昼食》1868-1869年
モネは12点出品しました。
ちなみに「印象派展」というタイトルは、この展覧会を見た批評家が、作品を批判するために使った「印象」という言葉から後につけられた名称で、モネたち言い出したわけではありません。
展覧会は全く上手くいかず、モネに経済的な安定をもたらすことはありませんでした。
その後、「画家、彫刻家、版画家など、芸術家の共同出資会社」は解散しました。
あれもこれもうまくいかない
クロード・モネ《アルジャントゥイユの雪景色》1875年
35歳のとき、モネ、ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾは、オークションハウス「オテル・ドゥルオ」で多数の作品を競売にかけざるを得なくなります。
しかし、参加者に嘲笑され、無残な結果に終わりました。
画商デュラン=リュエルの経済状況が悪化して絵をあまり買ってくれなくなり、第1回印象派展まで失敗してしまい、モネは経済的な苦境に陥りました。
甘え上手、どこまでもねだるモネ
クロード・モネ《アルジャントゥイユのモネの庭にいるカミーユと子供》1875年
そこで、たびたびマネに経済的援助を頼みました。
モネは、マネに「もし苦境を脱することができなければ、僕の絵具箱はずっと閉じられたままになるでしょう」という手紙を送り、マネに支援してもらいました。
モネは成功した後も、友人に家族の心配事など、愚痴や泣き言を手紙で訴えることが多くありました。
モネは確かに苦労人でしたが、基本的に自分の周りの甘えられる人物に、経済的であれ、精神的であれ、たえず無心するようなところがありました。
クロード・モネ《散歩、日傘をさす女性》1875年
したがってこの頃のモネも、経済的な困窮を大げさに訴えていたようです。
というのも、モネの家族の姿は、どう見ても優雅なブルジョワ風でした。
パトロンをゲット
クロード・モネ《霜》1875年
この頃、モネの作品を個人的に購入する収集家・愛好家たちが現れ始めました。
バリトン歌手ジャン=バティスト・フォール、実業家エルネスト・オシュデ、税官吏ヴィクトール・ショケなどなど。
次回は、懲りもせずに開催した第2回印象派展編です!
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