こんにちは!
今回は、モネの睡蓮の「大装飾画」についてです。
早速見ていきましょう!
モネの睡蓮「大装飾画」
前回のおさらい
モネの絵が現存画家として初めてルーヴル美術館に収蔵されました!やったネ!
「大装飾画」の国への寄贈
クロード・モネ《睡蓮の池》1917-1919年
モネ78歳のとき、第一次世界大戦の勝利を記念して、睡蓮の「大装飾画」のフランス政府への寄贈を友人で当時の首相クレマンソーに打診しました。
当初は、現在のロダン美術館(ビロン邸)の庭に円形パビリオンを設置し、幅4メートルのキャンバスを12枚設置する計画でした。
しかし、建物建設にかかる費用の問題などでこの計画は修正を迫られ、モネは制作自体を断念しかけました。
親友ルノワールの死
79歳のとき、親友ルノワールが世を去りました。
モネと日本人
クロード・モネ《睡蓮》1906年頃
80歳のとき、大原孫三郎(彼のコレクションがあるのが大原美術館)の依頼で画家の児島虎次郎がモネを訪問しました。
上の絵は大原美術館所蔵作品です。
クロード・モネ《睡蓮》1916年
81歳のとき、実業家の松方幸次郎(彼のコレクションがあるのが国立西洋美術館)がモネを訪問しました。
モネはのちに松方に「睡蓮」の巨大な習作と壁画を譲りました。
上の絵は国立西洋美術館所蔵作品です。
大装飾画
クロード・モネ《日本橋》1922年
ベルネーム=ジューヌ画廊で回顧展が開催されました。
82歳のとき、白内障が進行し、制作が難しくなりました。
それでもクレマンソーがモネを強く説得し、「大装飾画」の国家寄贈が正式契約となりました。
その内容は、19枚のパネル(作品8点)を2年以内にオランジュリー美術館のモネ・ギャラリーに納入するというものでした。
しかしその後、白内障のため失明の危機に直面します。
クロード・モネ《日本橋》1918‐1924年
クレマンソーは仕事を放棄しようとするモネを励まし続けました。
そしてモネも、すでに動き始めていたプロジェクトに対して、白内障が悪化したからといって制作を放棄できなくなっていました。
約束を守るため目の手術を受ける
クロード・モネ《睡蓮の池、緑の反射》1920‐1926年
83歳のとき、クレマンソーと交わした約束を守るため、嫌がっていた白内障の手術(2度目)を受けました。
これにより右目の視力がある程度回復しましたが、左目は失明に等しい状態でした。
モネは、当初約束していた引き渡し期限を延期し、残りの生涯をかけて「大装飾画」の制作に没頭しました。
次回はいよいよ最終回!モネが人生をかけて完成させた作品が登場します!
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