こんにちは!
今回は、モネが連作をたくさん描いていた時期について解説します。
早速見ていきましょう!
モネの連作「積みわら」「ポプラ並木」「ルーアン大聖堂」
前回のおさらい
モネはゴッホの弟テオ(画商)に絵を売ったり、ロダンと一緒に展覧会を開いたり、マネの絵を守ったりしました。
旅行はやめて全集中「積みわら」
クロード・モネ《積みわら、夏の終わり》1891年
40代から晩年にかけてモネは、ひとつのテーマをさまざまな天候や、季節、光線のもとで描く「連作」をよく描くようになりました。
モネ50歳のとき、連作『積みわら』の制作を再びはじめました(48歳のときにはじめた)。
デュラン=リュエルの資金援助を受けて、借地だったジヴェルニーの家と土地を買い取りました。
《積みわら – 午前中、雪の影響》1891年
モネはしばらくの間旅行を諦め、自宅の周りの積みわらを描くことに集中しました。
『積みわら』は、一般的にモネの最初の連作とされており、ブッソ・ヴァラドン商会が翌年モネから1枚3,000フランで3点購入しました。
ピサロは、息子リュシアン・ピサロへの手紙の中で「みんなモネの作品しか欲しがらない。……みんな『日没の積みわら』を欲しがる。……彼が描いたものは全部、4,000フランから6,000フランでアメリカに売られていく」と記しています。
ピサロは、モネの連作を商業主義的だと批判しました。
世間での印象派に対する風当たりが弱まっていく中、モネの顧客や取引先も増え始めていき、経済的な成功に伴い、私生活も充実していきました。
51歳のとき、エルネスト・オシュデが亡くなりました。
デュラン=リュエル画廊で開催された個展に『積みわら』の連作15点を含む22点を出品し、大成功を収めました。
絵を描くために買った「ポプラ並木」
クロード・モネ《陽を浴びるポプラ並木》1891年
『積みわら』に続き、春から秋にかけて、エプト川近くのリメツ沼の岸辺で、『ポプラ並木』の連作23点を制作しました。
やっとアリスと結婚
52歳のとき、事実婚状態を長く続けてきたアリスと正式に結婚しました。
その4日後には義理の娘となったシュザンヌが、ジヴェルニーに移り住んだアメリカ人画家セオドア・アール・バトラーと結婚しました。
最初は2人の結婚に反対だったモネでしたが、バトラー家が資産家だとわかると態度を変え結婚を許しました。
悪夢にうなされながら描いた「ルーアン大聖堂」
クロード・モネ《ルーアン大聖堂、ファサード(日没)》1892年
ルーアン大聖堂を訪れ、西側正面の建物の中にイーゼルを置き、『ルーアン大聖堂』の連作に着手しました(こちらは33点)。
デュラン=リュエル画廊で開催された個展で『ポプラ並木』の連作を15点ほど発表しました。
『ポプラ並木』連作は、『積みわら』連作の3倍以上の高値で売れました。
次回は、モネ、自宅の庭に睡蓮の池をつくるの巻です。
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