こんにちは!
前回は、画家ヴィジェ=ルブランとマリー・アントワネットは同い年で友達だったという話でした。
今回はルブランが描いたマリーアントワネットを年代順に紹介します!
早速見ていきましょう!
ヴィジェ=ルブランが描いたマリー・アントワネット
ルブランは、元の顔の特徴を活かしながら、良い感じに美化して描く天才でした。
なのでマリー・アントワネットを始め、貴族から「自分の顔も描いて〜!!!」と引っ張りだこ。しかも美人。貴族は美人が大好きです。
マリー・アントワネットは、絶世の美女というわけではないけど、とにかく肌が白くて、ものすごくキレイだったので、とても魅力的に見えたそう。
色の白いは七難隠す、ですね!
ルブランも、マリー・アントワネットの肌を再現できる絵の具が無いと言っていたそう。
1778年
この絵から2人の友情は始まり、ルブランはフランス革命が起こるまで約10年間、マリー・アントワネットの絵を描き続けました。
バラを手に持ち、自慢の白い肌と美しいドレスが光で輝いています。テーブルには王冠も置いてあります。
右上には夫のルイ16世の胸像が描かれています。
1779-1788年
1783年
1783年
このモスリンのドレスが「下着みたいだ!」と大問題に。
流行の最先端すぎて、王妃の格好として相応しくないと非難されます。
そこで慌てて下記の作品とすり替えます。ルブランは仕事が早い。
1783年
宮廷の伝統を守り、古典的なドレスを着ています。
《マリー・アントワネットと子供たち》1787年
マリー・アントワネットとその子供たちが描かれています。
左が長女のマリー・テレーズ、抱っこされているのが次男ルイ・シャルル、ゆりかごを指差しているのが長男ルイ・ジョセフです。
ですが、どこかに違和感を感じませんか?
そう、指差しているのにゆりかごは空なんです!
実は、絵の制作中に次女ソフィーが天然痘で亡くなってしまい、喪のため黒いカバーが掛けられています。
生きていればこのゆりかごの中に描くつもりだったんでしょうね…。
ちなみに長男ルイ・ジョセフも、この絵の翌年に病死しています。
アントワネットは、首飾り事件、不人気、国内の混乱、我が子の死と続いたため、心なしか哀しそうな顔をしています。
1788年
この絵の1年後にフランス革命が起こり、マリー・アントワネットは断頭台の露と消えます。
《亡き後の王妃》1800年
危険を察して早々に国外脱出していたルブランは、亡命先で王妃の死を知ります。
この絵は、ただ1人生き残ったマリー・アントワネットの娘マリー・テレーズのために描かれた1枚です。