こんにちは!
今回は、レオナール・フジタこと藤田嗣治についてです。
早速見ていきましょう!
目次
レオナール・フジタ(藤田嗣治)(1886-1968年)
レオナール・フジタ(藤田嗣治)《自画像》1928年
藤田嗣治(ふじたつぐはる)は、日本生まれのフランスの画家です。
陸軍軍医の息子
東京牛込区で、4人兄弟の末っ子として生まれました。
父親は、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監まで昇進したすごい人物でした。
年1回の蔵の虫干しで出される古書の北斎や春水の版画を見るのが好きでした。
お土産にもらったフランスのお菓子の箱のデザインの美しさに感動します。
子供の頃から、和と洋の芸術的刺激を受けて育ちました。
森鴎外に勧められて…
18歳のとき、森鴎外の勧めもあって東京美術学校西洋画科に入学し、24歳のときに卒業しました。
その後、女学校の美術教師だった鴇田登美子と出会い結婚します。
パリのモンパルナスへ
26歳のとき、妻を残してパリへ留学しました。
結婚生活は1年余りで破綻しました。
当時、家賃の安さで貧乏な画家が集まっていたモンパルナスのアパートに住みました。
隣の部屋に住んでいたモディリアーニとは親友になり、スーティンは弟のように面倒を見てあげていました。
戦後の好景気の恩恵
28歳のとき、第一次世界大戦が勃発し、日本からの支援が止まり、貧窮します。
戦時下のパリでは絵は売れず、食事にも困り、寒さのあまり描いた絵を燃やして暖を取ったこともありました。
30歳のとき、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエと結婚しますが、38歳のときには離婚しています。
この頃初めて絵が売れ、その後少しずつ売れ始め、3か月後には初めて個展を開くまでになりました。
31歳のとき、シェロン画廊で開催された自身初の個展では、著名な美術評論家が序文を書き、良い評価を受けて、すぐに絵も高値で売れるようになりました。
翌年第一次世界大戦が終結し、戦後の好景気に合わせて多くのパトロンがパリに集まって来ており、この状況が追い風になりました。
35歳のとき、サロン・ドートンヌ審査員になりました。
モンパルナスで珍しく成功した画家だった
レオナール・フジタ(藤田嗣治)《寝室の裸婦キキ》1922年
36歳のとき、上の作品を発表し、絶賛され、一流画家の仲間入りをします。
当時のモンパルナスで経済的な面でも成功を収めた数少ない画家でした。
画家仲間では珍しかった熱い湯の出るバスタブを据え付けたことで、多くのモデルがこの部屋にやって来てはささやかな贅沢を楽しみました。
その中には、上の絵のモデルにもなったマン・レイの愛人でモンパルナスの女王キキもいました。
パリの寵児となった藤田は、フランス語のつづり「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、仮装パーティーやどんちゃん騒ぎの主役として目立ち、モンパルナスで彼のことを知らない人がいないくらい有名になっていました。
そんな藤田でしたが、意外にもお酒が全く飲めず、シラフでお調子者を演じていました。
なぜこんなことをしていたかというと、異邦人としての孤独感を紛らわすためだったそう…。
腕時計と指輪のタトゥー
土門拳撮影 1940年
どんなに騒いでも絵を描くことを忘れないようにと、腕には腕時計のタトゥーをいれていました。(ちなみに指にも指輪のタトゥーがあります)
レオナール・フジタ(藤田嗣治)《5人の裸婦》1923年
38歳のとき、フランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を受章しました。
17年ぶりの帰国
藤田が「お雪」と名付けたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚しましたが、43歳のとき離婚しています。
42歳のとき、お雪と17年ぶりに日本に帰国し、三越で個展を開きました。
レオナール・フジタ(藤田嗣治)《眠れる女》1931年
45歳のとき、新しい愛人マドレーヌを連れて、個展開催のため南アメリカへ行き、作品は大絶賛されました。
日本へは二度と帰らないと宣言していましたが、47歳のとき帰国しました。
5度目の結婚
50歳のとき、25歳年下の堀内君代と結婚しました。
藤田はこれが5度目の結婚で、終生連れ添いました。
日本への失望
レオナール・フジタ(藤田嗣治)《アッツ島玉砕》1943年
52歳のとき、第二次世界大戦が勃発します。
戦場の若者たちと少しでも同じ気持ちになれたらと思い、27年間のオカッパ頭を坊主にし、陸軍美術協会に参加し、戦争画を制作しました。
画壇は戦争画を推奨し、画家はこぞって制作しました。
54歳のとき、文部大臣から帝国芸術院会員に推薦され、やっと日本の美術界に認められたんだと喜びます。
1945年、日本は敗戦しました。
戦犯リストに藤田の名前があり、結局このリストは公開されませんでしたが、日本画壇の責任を押し付けるような態度に失望します。
59歳のとき、GHQ嘱託として戦争画収集に協力させられました。
再びパリへ
レオナール・フジタ(藤田嗣治)《カフェ》1949年
日本に嫌気がさした藤田は、62歳のとき、アメリカへ1年過ごした後、パリへ行き、2度と日本に帰ることはありませんでした。
レオナール・フジタ(藤田嗣治)《フルール河岸 ノートル=ダム大聖堂》1950年
モンパルナスでアパートを借り、制作に没頭しました。
そんな藤田の元に、旧友や別れた妻お雪などが遊びに来ましたが、既に多くの友人の画家がこの世を去るか亡命していました。
そんな中でも、再会を果たしたピカソとの交流は晩年まで続きました。
レオナール・フジタ(藤田嗣治)《姉妹》1950年
モンパルナスの女王キキも亡くなり、ひとつの時代が終わっていきます。
フランスに帰化
68歳のとき、妻の君代と共にフランス国籍を取得しました。
その後、日本国籍を抹消しています。
レオナール・フジタ(藤田嗣治)《誕生日》1958年
72歳のとき、ランス大聖堂でカトリックの洗礼を受けました。
洗礼名はレオナルド(フランス語読みでレオナール)で、尊敬するレオナルド・ダ・ヴィンチからとった名前でした。
レオナール・フジタ(藤田嗣治)《フランスの48の富》1960-1961年
75歳のとき、パリを離れ、ヴィリエ・ル・バルクの農家をアトリエに改造し、静かに暮らしました。
広沢虎造の浪曲「森の石松」が大好きでよく聞いていました。
レオナール・フジタ(藤田嗣治)《礼拝》1962-1963年
モチーフはかつての人物や猫から、子供や天使、聖母へと変わりました。
79歳のとき、去年ニースで見たマティスの礼拝堂に感化され、ランスにフジタ礼拝堂を建て装飾しました。
進行する癌をおして制作しました。
完成後、81歳でスイスの病院で亡くなりました。
遺体はヴィリエ・ル・バルクに埋葬されています。
まとめ
・藤田は、日本画の技法を油彩画に取り入れ、海外で成功した画家