こんにちは!
今回は、バスキアについてです。
早速見ていきましょう!
目次
ジャン=ミシェル・バスキア(1960-1988年)
ジャン=ミシェル・バスキア《自画像》1984年
ジャン=ミシェル・バスキアは、アメリカの画家です。
27年という短い生涯のうちに、1500枚のドローイングと600枚の絵画、そのほかに彫刻や様々なメディウムを利用した作品を制作しました。
母親の影響
ニューヨークで4人兄妹の次男として、兄が亡くなった直後に生まれました。
母親が大の芸術好きだったこともあり、バスキアは幼い頃から絵を描き、よく美術館に連れて行ってもらい、ブルックリン美術館のジュニア会員にもなっていました。
4歳のときには、早くも読み書きを覚えていました。
バスキアの教師は、彼に芸術的才能を見い出し、母親もバスキアに芸術的才能を伸ばすよう励ましました。
6歳のとき、芸術専門の私立校の名門ニューヨークの聖アンズ学校に入学しました。
プロッツォと仲良くなり、2人で児童用の本を制作しました。
プロッツォがイラストを描き、バスキアは文章を書きました。
バスキアはスペイン語、フランス語、英語の本を読む多読家でした。
病室で読んだ本
Gray’s Anatomy (English Edition)
7歳のとき、道路で遊んでいるときに交通事故にあい、腕を骨折し、内臓も破裂する大怪我をして、脾臓除去手術を受けることになりました。
療養の間、母親はヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』をバスキアに渡しました。
これがきっかけで、バスキアは解剖学に関心を持つようになり、将来の芸術観に大きな影響を与えました。
両親の別居
その後、両親が別居し、バスキアと2人の妹は父親に預けられ、家族はブルックリンのボアラム・ヒルで5年間過ごすことになりました。
11歳のときには、フランス語、スペイン語、英語を流暢に話せるようになっていました。
また、陸上競技のトラック競技に出場して活躍するなど、有能なアスリート選手でもありました。
13歳のとき、プエルトリコのサンフランへ移り、2年後、バスキアの家族は再びニューヨークへ戻りました。
母親は精神病院に入院し、その後、施設内外で過ごすことになりました。
家出
15歳のとき、バスキアは家出をしました。
主にニューヨーク、マンハッタンのトンプキンス・スクエア公園のベンチで寝て、日々を過ごしていましたが、警察に逮捕されて父親の保護監察下に置かれることになります。
17歳のとき、エドワード・R・ムロー高等学校10学年時に退学しました。
その後、退学した美学生の多くが通うマンハッタンにあるシティ・アズ高校へ転入しました。
父親は退学したバスキアを家から追い出したため、バスキアは友人のもとに居候しました。
当時、バスキアはTシャツやポストカードを手作りして販売し、生計を立てていました。
SAMO
バスキアと友人のディアスは、「SAMO(Same Old Shift いつもと同じだよ)」というユニットを結成し、匿名下でグラフィティ作品の制作を始めました。
マンハッタンの下層地区の建物に塗装スプレーを使ったグラフィティ・アートを多数描きました。
このころからバスキアは、SAMOのユニット名で、政治的で詩的なグラフィティを制作するアーティストとして次第に知られるようになりました。
バスキアはホームレスで失業状態からほんの数年間で、1枚の絵を最高額で25,000ドルで販売するまでになりました。
昼はノーホーにあるユニーク・クロシング倉庫で働き、夜になると近隣の建物にグラフィティ作品を制作して過ごしました。
ある夜、ユニーク・クロシングの社長ハーベイが、建物に絵を描いている途中のバスキアに偶然出会いました。
彼はすぐさまバスキアの才能を認め、生活費を支えるために仕事を依頼するようになりました。
新聞『ザ・ヴィレッジ・ボイス』誌がグラフィティ・アートにSAMOの特集を組みました。
《SAMO IS DEAD》1979年
その後、バスキアとディアスの友好関係が終わると同時にSAMOのグラフィティ活動も終了しました。
18歳のとき、ソーホーの建物の壁に碑文「SAMO IS DEAD」を刻みました。
メディア出演
ジャン=ミシェル・バスキア《マイナーな成功》1980年
グレン・オブライエン司会のTV番組「TV Party」に出演し、それがきっかけで2人は親交をはじめ、以後、彼の番組に数年間定期的に出演するようになりました。
バスキアはノイズ・ロック・バンド「Test Pattern」(のちに「Gray」に改名、母親からもらった『グレイの解剖学』が由来)を結成し、クラリネットを演奏しました。
19歳のとき、オブライエンのインディペンデント映画『ダウンタウン81』に出演しました。
ウォーホルとの出会い
ある日、アンディ・ウォーホルとレストランで会いました。
バスキアはウォーホルに自作のサンプルをプレゼントし、ウォーホルはバスキアの才能を瞬時に見抜きました。
2人はのちにコレボレーション活動を行うようになります。
展覧会への参加
ジャン=ミシェル・バスキア《無題(頭蓋骨)》1981年
20歳になると、グラフィティ作家から、ドローイングやペインティングを中心としたアーティストとして本格的に活動を始めました。
ジャン=ミシェル・バスキア《無題》1981年
バスキアが、初めて作品を正式に公開したのは、ニューヨークの空き家の建物で開催されたグループ展「タイム・スクエア・ショー」でした。
この展覧会で、様々な美術批評家や学芸員の注目を集めました。
特にイタリア人ギャラリストのエミリオ・マッツォーリがこの展覧会でバスキアの作品に感動し、その後、バスキアをイタリアのモデナに招待して、最初の国際的な個展を開催しました。
ジャン=ミシェル・バスキア《黒人警察官》1981年
ニューヨークのロング・アイランド・シティにあるMoMA PS11で開催されたグループ展『ニューヨーク・ニューウェーブ』には、バスキアの他に、キース・ヘリングなど118人のさまざまな分野のアーティストの作品が展示されました。
恩人のルネ
ジャン=ミシェル・バスキア《無題(斧/ルネ)》1982年
ルネ・リチャードが『Artforum』誌で『眩しい子ども』というタイトルでバスキアを紹介したのがきっかけで、世界中で注目を集めるようになりました。
ジャン=ミシェル・バスキア《無題》1982年
アニーナ・ノセイ・ギャラリーと契約を交わし、21歳のとき、同ギャラリーでのアメリカの初個展に向け、ギャラリー内で制作を行いました。
ジャン=ミシェル・バスキア《無題(ボクサー)》1982年
このころまでにバスキアは、ほかの新表現主義と呼ばれるアーティストらとともに作品を定期的に展示するようになっていました。
短期間でしたが、デビッド・ボウイとコラボレーション作品も制作しました。
再びイタリアのモデナに滞在し、2度目の個展を開催しました。
「黒人アーティスト」というレッテルを嫌った
ジャン=ミシェル・バスキア《無題(黒人の歴史)》1983年
バスキアは、「黒人アーティスト」と呼ばれることを極端に嫌っており、アーティストとして有名になるという強迫観念が人並み以上に強かったそう。
ガゴシアンがヴィネツィアやカリフォルニアに建てたギャラリーの1階展示スペースで制作をはじめました。
22歳のとき、開催された展示のための絵画シリーズがここで制作されたものだといわれています。
ほかにスイスの画商ブルーノ・ビショフベルガーを通じてヨーロッパで作品を展示、販売しました。
恋人は歌手のマドンナ
ジャン=ミシェル・バスキア《専門家のパネル》1982年
バスキアは、当時無名の野心家だった歌手マドンナと交際しており、よくギャラリーに連れ込んでいたといわれています。
上の絵は、ナイトクラブで、バスキアの2人の恋人、画家スザンヌ・マロークと歌手マドンナのキャットファイトを描いたものです。
ウェスト・ハリウッドにあるGemini 版画工房で、ロバート・ラウシェンバーグが制作していた作品に関心をもち、何度か彼を訪ねて、自身の創作におけるインスピレーションを得ていました。
23歳のとき、主要なバスキア作品の展覧会となったスコットランドで開催された『ジャン=ミシェル・バスキア:絵画 1981-1984』は、ロンドン、オランダ、ドイツを巡遊する国際的な展覧会となりました。
レコードのジャケット
《Beat Bop. Test Pressing, Version One, Volume One》1983年
22歳のとき、ヒップホップアーティストのラメルジーやK Robに焦点を当てた12インチのシングルレコード「ラメルジー VS K Rob」のカバーを制作しました。
タートゥン・レコード・カンパニーの一度限りのレーベルから限定500枚で発売されました。
現存しているレコードは300枚程度で、オークションで$1,500~2,000ドルの値段で取引されていたこともあります。
ウォーホルとのコラボ作品
ジャン=ミシェル・バスキア、アンディ・ウォーホル《タクシー、45番/ブロードウェイ》1984-1985年
23歳のとき、スイスの画商ブルーノ・ビショフバーガーの提案により、ウォーホルとバスキアは2年間、コラボレーション作品を制作しています。
ジャン=ミシェル・バスキア、アンディ・ウォーホル《オリンピック・リング》1985年
最も有名なのは上の作品で、前年にロサンゼルスで開催された夏季オリンピックから影響を受けて制作したものでした。
ウォーホルは元の原色をレンダリングしたオリンピック五輪のさまざまなバージョンを制作し、バスキアは抽象的で様式化した五輪ロゴに反発するようにドローイングを行いました。
成功と崩壊
24歳のとき、バスキアは「ニューアート、ニューマネー:アメリカン・アーティスト市場」というタイトルの『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の表紙になりました。
バスキアはこの時代に芸術家として成功を収めましたが、この時期にヘロイン中毒が悪化し、個人的な交友関係が壊れはじめていました。
25歳までにバスキアは、ソーホー区にあるアニーナ・ノセイ・ギャラリーから離れ、ソーホーのメアリー・ブーン・ギャラリーで展示するようになりました。
ジャン=ミシェル・バスキア《この質問に答えて、バットマン》1987年
26歳のとき、ウォーホルが亡くなると、バスキアは孤立を深め、さらにヘロインに依存するようになり、うつ状態が悪化しました。
ジャン=ミシェル・バスキア《THE DINGOES THAT PARK THEIR BRAINS WITH THEIR GUM》1988年
ハワイのマウイに旅行している間は薬物をやめていましたが、27歳のとき、マンハッタンのスタジオでヘロインのオーバードーズで亡くなりました。
バスキアの遺産は、父親が管理し、鑑定する委員会も監督しています。
まとめ
・バスキアは、貧富の差や黒人差別に対する怒りや悲しみを作品で表現したアーティスト