こんにちは!
今回は、甘くて軽やかなロココの画家、フラゴナールについてです。
どんな画家が描いたのか、早速見ていきましょう!
目次
ジャン・オノレ・フラゴナール(1732-1806年)
ジャン・オノレ・フラゴナール《自画像》1760-1770年
ジャン・オノレ・フラゴナールはロココ期のフランスの画家です。
絵を描くスピードはフランス随一だったといわれています。
法律事務所で働いていた
彼は、革手袋製造業を営む家庭に生まれ、南フランスのグラースで育ちました。しかし、父親が事業に失敗し、一家はパリに引っ越しました。
15歳のフラゴナールは、親の意向で法律事務所で働き始めました。
適性
しかし、仕事よりも絵を描くことが好きだったフラゴナールを見て、父親は著名な画家ブーシェに、に弟子入りを頼みました。しかし、「基礎がない子は…」という理由で断られてしまいました。
そのため、フラゴナールはシャルダンのもとで絵画の基礎を学び、16歳でついにブーシェのもとで弟子入りすることができました。
初めてのコンクールで大賞
ジャン・オノレ・フラゴナール《黄金の子牛に生贄をささげるヤラベウム》1752年頃
ブーシェの勧めで初めて参加したアカデミーのローマ賞コンクールでは、1等賞を取りました。
これにより、大賞受賞者だけが入れる王立アカデミーへの入学と、ローマへ5年間留学できる権利をゲットしました。
大評判
ジャン・オノレ・フラゴナール《コレシュスとカリロエ》1765年
33歳のとき、上の作品をサロンに出品し、評判を得てアカデミー準会員に選ばれました。
アナ雪にも登場した絵画
ジャン・オノレ・フラゴナール《ぶらんこ》1767-1768年
フラゴナールの代表作です。
この絵は、人前で「これ好き〜」と言うにはちょっと大胆な内容かもしれません。
実は、絵の中では愛人のスカートの中を覗いているシーンが描かれています。
驚くことに、この絵はディズニー映画『アナと雪の女王』にも登場しています!
奥さんも画家
37歳で細密画家のマリ=アンヌ・ジェラールと結婚しました。
彼女の妹マルグリットは、フラゴナールから絵画を学び、画家としての成功を収めました。
恩師の死
38歳のときに、恩師ブーシェが亡くなりました。
ブーシェのアトリエに残された絵を、フラゴナールが購入しました。そんなところに彼の気概を感じますね。
マリー・アントワネットがライバル!デュ・バリー夫人
39歳のとき、ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人から室内装飾用の絵の注文が舞い込んできました。
デュ・バリー夫人といえば、ルイ16世の妻マリー・アントワネットとの宮廷バトルが有名です。
フラゴナールは気合を入れて4枚の連作《恋の成り行き》を制作しました。
ジャン・オノレ・フラゴナール《恋の成り行き:逢引》1771-1772年
この絵のパロディがディズニーシーにあります。
ジャン・オノレ・フラゴナール《恋の成り行き:追跡》1771-1772年
ジャン・オノレ・フラゴナール《恋の成り行き:愛の戴冠》1771-1772年
ジャン・オノレ・フラゴナール《恋の成り行き:恋文》1771-1772年
熱意を込めて描いたにもかかわらず、彼女の好みとは合わず、返品されてしまいました。
いつしか時代遅れの画家に…
フランス革命で保守的な作風が好まれるようになり、甘いロココ絵画は古くさくなりました。(実際は、フラゴナールの作風を好んだパトロンの大半がギロチンや追放により姿を消したため)
ルーヴル美術館の館長へ
ダヴィッドの推薦で、ルーヴル美術館の所蔵管理を担当し、後に館長に就任しました。
しかし、ナポレオン革命で職を失い、ルーヴル美術館の住居から追放されました。
死因はアイス?
アイスを食べて頭が冷え過ぎたせいか、脳梗塞で亡くなったといわれています。
まるでコメディ映画のような死に方…これは本当の話なんだろうか…。
まとめ
・甘くて軽やかな絵画スタイル ・絵を描くスピードがフランス随一 ・売れっ子画家からのルーヴル館長