美術の権威アカデミーの父アングルってどんな人物?超解説!

こんにちは!

今回は、西洋絵画を語る上で欠かせない人物、巨匠アングルについて解説します。

早速見ていきましょう!

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(1780-1867年)

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル《24歳の自画像》1804年

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルは、フランスの画家です。

フランス南西部のモントーバンに生まれます。

彼は、絵画で一番大切なのは「デッサン」だと説いた人物でもあります。

父子共に多才

父親は画家であり、彫刻家でもあり、装飾美術家でした。

職人気質で、化粧漆喰、建築、家具の装飾彫刻、看板描きから音楽まで手広く手掛けていました。

6歳のとき、父親から絵画バイオリンを教わります。

11歳のとき、トゥールーズの美術アカデミーに入学します。

ことわざ

16歳のとき、交響団の第2バイオリン奏者として収入を得ていました。

フランス語で「アングルのバイオリン」ということわざまであり、意味は「ものすごく上手な趣味(本業ではない)」です。

ダヴィッドのアトリエに入門

《男のトルソ》1800年

17歳のとき、パリに出て、新古典派の巨匠ダヴィッドのアトリエに入ります。

ダヴィッドから、歴史や神話、英雄など「読ませる絵画」を描くよう指導されます。

19歳のとき、国立美術学校に入学します。

ローマ賞受賞したのに…

《アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち》1801年

21歳のとき、上の絵で、当時若手画家の登竜門であったローマ賞を受賞し、国費でイタリア留学できるはずでした。

しかし、ナポレオンが戦争にお金を使いすぎて予算が無くなってしまい、5年間待たされることに…。

服だけ立派

《王座のナポレオン1世》1806年

23歳のとき、ナポレオンから肖像画の依頼がきて描きますが、服ばかり立派で顔色が悪いと周りから酷評されます。

ラファエロラブ

《ラファエロとラ・フォルナリーナ》1814年

26歳のとき、やっとイタリア4年間留学できることに。

そこで見たラファエロに感銘を受けます。

というのも、イタリアの画家も、ギリシャ彫刻みたいな筋肉隆々な感じかと思いきや、巨匠ラファエロの描く人物は、柔らかくて優しげで、全くの真逆だったからです。

ラファエロのことが大好きすぎて、後にラファエロと恋人の絵まで描いています。(笑)

さらに画面右奥には、ラファエロの《小椅子の聖母》まで描きこんできます。愛が強い。

《浴女》1808年

上の作品は、イタリア留学の成果を示すために制作し、美術アカデミーに送付した作品のひとつです。

帰らない

その後アングルは、留学期間が終了したにも関わらずフランスに帰ろうとせず、44歳までイタリアのローマやフィレンツェに滞在していました。

33歳のときに、マドレーヌ・シャペルと結婚します。

35歳のとき、ナポレオンが失脚したことによって顧客を失い、収入のために肖像画の注文をたくさん受けて制作しました。

サロンには出品

イタリアにいましたが、フランスのサロンへも出品していました。

《グランド・オダリスク》1814年

39歳のとき、上の作品をサロンに出品しますが、「胴が長すぎるし、腕も細すぎだし、筋肉もない」と酷評され、落ち込みます…。

《ルイ13世の誓い》1824年

40歳のとき、故郷のモントーバン大聖堂から注文が入り、上の絵を4年間かけて完成させます。

その後パリでサロンに出品し、大評判となり、ダヴィッドの後継者として、また当時の新しい芸術運動であったロマン主義に対抗する新古典主義の指導者として、熱狂的に迎えられました。

36年後に完成

《泉》1820-1856年

上の絵は、40歳のときに描き始め、76歳のときに完成したアングルの代表作です。

高まる名声

45歳のとき、レジオン・ドヌール勲章を受賞し、アカデミー正会員になります。

49歳のとき、国立美術学校教授に就任します。

アカデミーの父

《聖サンフォリアンの殉教》1834年

54歳のとき、上の絵をサロンに出品しますが不評。

サロンと決別し、ローマへ向かいます。

そこでは、フランス・アカデミーの学長を務め、「アカデミーの父」と呼ばれました。

写真が画家の生活を脅かす!と抗議

当時発明されたカメラ写真技術によって、画家の生活が脅かされるとして、フランス政府に禁止するように抗議しました。(実際に、風景画や肖像画の依頼が減り始めたそう)

そんなアングルでしたが、自分は、絵画制作に写真を用いていました。(笑)

アングルは、古典の美を継承する「新古典主義」の画家ですが、写真とは異なる写実的な絵画を追究しました。

どういうことかというと、ぱっと見不自然さは感じないけれども、よく見ると、理想的な美しさを表現するために、首が長かったり、背中が伸びすぎていたりする絵を描いているんです。

パリへ戻る

《ドーソンヴィル伯爵夫人》1845年

61歳のとき、パリに戻ると注文が殺到します。

70歳のとき、国立美術学校の校長に就任します。

72歳のとき、30歳年下の女性と再婚します。

75歳のとき、パリ万博でアングルの大回顧展が開催されます。

これを若きドガが見ていました。(ドガはアングルの大ファン)

82歳のとき、上院議員に任命されます。

晩年の傑作

《トルコ風呂》1862年

巨匠と呼ばれるようなすごい画家でも、晩年の作品となると大体はそこまで評価が高くないのですが、アングルは違います。

82歳で上の作品を制作しました。

彼の代表作のひとつです。本当にすごい。飽くなき探究心ですね。

87歳のとき、肺炎が悪化し亡くなります。

まとめ

アングルは、デッサンをとにかく重視した画家
・アカデミーの父