どことなく憂鬱な絵を現実離れした色彩で描いた画家ポントルモを超解説!

こんにちは!

今回は、ポントルモについてです。

早速見ていきましょう!

ヤコポ・ダ・ポントルモ(1494-1557年)

ヤコポ・ダ・ポントルモ《聖母子と聖人たち(プッチ祭壇画》1518年

ヤコポ・ダ・ポントルモは、イタリアの画家です。

上の絵の、右端の聖ヤコブはポントルモの自画像だといわれています。

死を経験しすぎて死を異常に恐れるように

トスカーナ近郊のポントルメ村で生まれました。

本名は、ヤコポ・カルッチです。

5歳で父親を、10歳で母親を、12歳で祖父を亡くし、祖母に育てられました。

13歳のとき、フィレンツェの靴職人の親戚のところに預けられます。

14歳のとき、孤児院に移されました。孤独…。

巨匠に褒められる

その後、レオナルドを始め、いくつかの画家の工房で修行しました。

フィレンツェから来ていたラファエロが、偶然ポントルモの絵を見て、「あの子は将来成功する」と言っていたとか。

18歳のとき、アンドレア・デル・サルトの工房の助手になりました。

20歳のとき、教皇レオ10世からの依頼で、サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会のフレスコ画を制作し、それを見たミケランジェロに褒められました。

あまりにも絵が上手かったポントルモを師匠が良く思わず、アンドレアの工房を去りました。

弟子はブロンズィーノ

ヤコポ・ダ・ポントルモ《エジプトのヤコブとヨセフ》1518年頃

当時、フィレンツェには仕事がたくさんあり、大忙しの日々を送りました。

 

ある日、9歳年下のブロンズィーノが弟子にして欲しいと志願してきました。

上の絵のこの少年は、ブロンズィーノがモデルです。

ヤコポ・ダ・ポントルモ《コジモ・メディチの肖像》1519-1520年

25歳のとき、教皇レオ10世から、メディチ家の別荘の壁画を依頼されますが、未完に終わります。

ペスト大流行

29歳のとき、フィレンツェでペストが大流行します。

ヤコポ・ダ・ポントルモ《エマオの晩餐》1525年

フィレンツェ南モンタグートの丘に立つガッルッツォのカルトゥジオ修道院に、弟子のブロンズィーノと逃げ込み、こもりました。

都会を離れた2年間で、新しい表現「マニエリスム」が生まれました。

マニエリスムを代表する作品

ヤコポ・ダ・ポントルモ《十字架降下》1546-1528年

31歳のとき、修道院を出てフィレンツェに戻り、サンタ・フェリチタ聖堂カッポーニ礼拝堂の全ての装飾を依頼されます。

注文主のカッポーニにすら、制作途中は見せられないと、立ち入りを禁止しました。

そして34歳のとき完成させました。

右端にいる男性は、ポントルモの自画像です。

この大袈裟な仕草や、現実離れした色彩は、ミケランジェロから影響を受けています。

ヤコポ・ダ・ポントルモ《聖母のエリサベツ訪問》1528-1530年

40歳のとき、2階建ての家を建てましたが、とても変わった家でした。

というのも、1階に玄関がなく、2階のアトリエにある扉から出入りするときだけ梯子を出していたそうで…。

52歳のとき、教皇クレメンス7世からの依頼で、サン・ロレンツォ聖堂の壁画に着手しました。

渋い日記

60歳の頃から日記をつけ始めました。

内容は何を食べたかと健康についてで、感想なども特になく、

「キャベツを食べた」「パンを食べた」「うなぎのローストを食べた」「ブロンズィーノと食事をした」「食べすぎたので夕食を抜いた」などでした…。

一人暮らしでしたが、休日にはブロンズィーノと食事をすることもありました。

そして62歳のとき、亡くなりました。

20歳のときに壁画を制作し、ミケランジェロに褒められたサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会の中庭に埋葬されました。

まとめ

ポントルモは、現実離れした色彩だけど、どこか憂鬱な絵を描いたマニエリスムの画家